わたいりカウンター

わたいしの時もある

もみじの錦

このたびはぬさもとりあえずたむけ山
 紅葉の錦 神のまにまに
すがはらの朝臣(古今/羈旅/420) 

 私がSplatoon2を始めて今日で4年半ほど経ち、プレイ時間は2000時間に届こうというところ、ようやく念願だった全ルールXを達成できました*1。新作発売を今週末に控えて、本当に滑り込みという感じですが、うれしい。とてもうれしいです。何より、自分の好きなブキで達成できたことがうれしいかった。なるべく噛み砕いて話しますので、ちょっと聞いてもらえますか。
 多くのプレイヤーが自分の手に馴染むブキを使って楽しんでいると思います。私にとっての「持ちブキ」はもみじシューターでした。
 もみじシューターは相手を倒すというよりもサポートに特化した武器で、リザルト画面では相手を倒した数が少なくなりがち。環境、というのでしょうか、俗に言う「勝ちやすいブキ」というわけではありませんでした。それどころか試合展開によっては役割を持てない場合もあります。そんな一般的な評価の低さからか、味方から煽られ試合を放棄されるみたいな辛いことが、ウデマエをあげていくうちに何度もありました。
 「勝つためにベストを尽くしてないのではないか?」
 とどのつまり、煽ってくるイカ*2の言い分はそこだと思いました。私自身、悲しみに耐えかねて、このブキを使って勝ちたい、というのはエゴかもしれないと思い、環境で結果を出しているブキに持ち替えたりもしました。ある程度の結果は出ました。けれど、それではあんまり楽しくないのですね。今度は「なぜこのゲームをやっているのか?」という根本的な問いにぶつかることになります。
 そして結局もみじシューターに戻ってきてしまうのでした。なら考えるべきは「もみじシューターで勝つためのベスト」。もう一度各要素を検討して、いろんな工夫をしました。
 一番うれしかったのは、やられた時のリスクを減らすという若干後ろ向きな戦法から、生き残った時のリターンが大きいポジティブな戦法に変えたことで勝率が上がったことです。私自身、ここ数年はかなり後ろ向きな気持ちでいる時間が長かったのですが、その傾向といい意味で折り合いをつけることができた気がします。
 歌は、急ぎの旅だったから、お供え物もありあわせのものしか手向けることしかできないけれど、紅葉が綺麗ですねこの山は。どうか神の御心のままに(無事に旅を終えられるようお願い申し上げます)、というような訳になるでしょうか。
 歌では、自分のお供物がみすぼらしいものなのに、山の紅葉は錦みたいで綺麗だと褒めています。ある意味、言葉を供えているとも言えるかもしれません。
 Splatoon2で決して強い武器ではなかったもみじシューターは、私が使う時はなんだか周りのプレイヤーに申し訳なかったですし、どちらかというと、みすぼらしいものだったかもしれません。
 けれど、私の人生においては、自分の性格を見つめ直すきっかけとなるブキでした。そんなもみじで普遍的な結果に届いたことは、記憶に赤い錦を縫いつけたみたいに忘れられなくて、これから振り返るたびに少しだけ背中を押してくれる私の支えになる気がしています。
 

*1:記念のスクショです

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*2:タコの場合もあります

宿題後回し癖

世の中を何に喩へむ朝開き
 漕ぎ去にし舟の跡なきごとし
 (万葉/巻三/雑歌/沙弥満誓/351)

 八月末に買い出しに行った時のことだ。スーパーの清涼飲料水エリアからエナジードリンクがごっそりなくなっていた。夏休みの宿題の追い込みにと求められたのだろうか。なんだかシンパシーを感じてしまった。私も最終日になって、今日やるほかに選択肢がないことを確認してから手をつけるタイプの人間だったからだ。
 冒頭歌を意訳するなら「世の中って、夜明けと同時に漕ぎ出していった舟の通った跡が、全然残らないみたい感じだよな」というような感じでしょうか*1
 「跡なき」という言葉は「はかない」「頼りない」の意味もあるらしく*2、とても無常感のある歌です。過ぎてゆく時間の不思議を歌った歌でもある気もします。自らの連続性をどう証明するか、みたいな。
 また歌の根っこには、陸路なら多くの人が通れば、踏み固められて道ができていくものですが、水上では道はできないという含みもありそうです。
 宿題を後回しにする、或いは毎日の更新を日付変更ギリギリに試みるみたいな自転車操業人生でいいのだろうか、とふと疑問がよぎってしまいました。死が近づくにつれて、若くなっていくなら、貯めていたやりたいことなんかも活動的に取り組むことができるでしょうが、実際はその逆です。当たり前のことですが、宿題を後回しにするって、突き詰めていくと悲しい末路が待っているようなことなんでしょうか。
 そこまで考えて、そういえば「世の中」という語には「男女の仲」という訳し方もあることに気づきました。嘘だろ。ここまですごい真面目に自分の人生振り返っちゃったのに、もしこれが相聞だったら悲しすぎる。だって、男女の仲が「朝開き漕ぎ去にし舟の跡なきごとし」って、じゃあ今夜のことはお互い後腐れなく、みたいなことじゃない?めっちゃチャラいじゃん!根暗な同類だと思ってたのに!*3気の合う友人と話していたつもりが、恋愛のフットーワークが軽い陽キャに懺悔していたみたいな気持ちになりました。*4

*1:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集

*2:参考:同上

*3:言いがかりがすぎる

*4:そのあと仲良くなれたらいいじゃん

川岸の石には雪が残ってる

  泉川にして作る歌一首
妹が門入り泉川の常滑
 み雪残れりいまだ冬かも
 (万葉/巻九/雑歌/1695)

 この1週間ほど、自分の心の狭さやら、不安やらに心を奪われがちだったけれど、指定された待機・療養期間を経て、なんとかまた元の日常に戻りつつあります。
 歌を訳すなら「妹が門(かど)入り泉川(いずみがわ)の常滑(とこなめ)に」妹が門を入ったり出づるではないが泉川の常滑には「み雪残れりいまだ冬かも」雪が残っている。まだ冬なのか、という感じでしょうか*1
 「いまだ冬かも」というのは具体的にまだまだ冬真っ盛りなのか、もうすぐ春ではあるのか、どっちなのかなと考えてしまいました。
 「み雪のこれり*2」雪が残っている、という表現をするなら、解けている雪もあるのだと思います。また「入り泉川の」と八字で字余りになっているところから、あふれるばかりに水位が高かったり水の勢いが激しいのかと邪推してしまいます。もしそうなら、雪解け水がそうさせるのだと思いますし、やはり春の手前の歌なのではと思います。
 常滑とは、川岸のすべすべした丸い石のことです。それと残雪の少し硬いザクザクした質感が取り合わせとしてたのしい気がしました。
 ですが、春が近いとはいえ、まだ春じゃないし、川岸の石は雪が残ってますます滑りやすい。楽しいことを見つけつつも、気を抜かずに収束まで見届けたいです。皆さんもどうかご自愛ください。

*1:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集

*2:全く余談ですが、単に変換すると「御幸のこれ理解」と出て笑ってしまいました。御幸の歌ではないと否定することもできないけども

濃い影から

  延喜御時、御屏風に
夏山の影をしげみやたまほこの
 道行人も立ち止まるらん
貫之(拾遺/夏/130)

 最近は、日が暮れればもう秋のような涼しい風が吹きますね。涼しくなってようやく、夏のいいところを考えるだけの余裕が出てきました。
 冬にこたつにこもってアイスを食べるのが心地良いように、この夏も冷房の効いた部屋で激辛ラーメンを食べるのが楽しかったです。寒い時には少しでも暖かく、暑い時には少しでも涼しく。あべこべな寒暖の明滅は今も昔も人の心を惹きつけます。
 歌を訳すなら「夏山の影をしげみやたまほこの*1」夏山では木陰が茂っているので(影が濃いので)「道行(みちゆく)人も立ち止まるらん」通行人も立ち止まっているのだろう、という感じでしょうか*2
 陰影がくっきり分かれた木陰のと日なたの対比が目に浮かぶようです。そこで「道行人も」の「も」が気になりました。この「も」の類推にはには大きく二つの解釈があるのではないかと思うのです。
 ひとつは「道行人」も「詠者」も、の「も」。詠者が暑さに耐えかね木陰で休んでいると、まるで示し合わせたかのように同じ木陰に人が集まり始める光景を含んでいるのかもしれません。その木の下が風通しが良かったのか、或いは見晴らしが良かったか、大きな木がランドマーク的に人々の目線を集めていたのかも。空想がはかどります。
 もうひとつは「道行人」も「影」も、の「も」。これはちょっと無理筋かもしれませんが一応考えてみたいです。詠者が日なたの道を歩いていると、濃い木陰があるのに気づきます。よくみると、その木陰ではチラホラと人が休んでいるのが見えました。その動かず休んでいる様子が、地面に濃く落ちた影の動じなさと重なって見えたかもしれないなとも思うのです。
 今の私はどちらかといわずとも明らかに日陰にいます。秋が近づき、日なたの暑さが和らいできたなら、少しずつまた道程を進めていかなくてはいけないと思います。そうは思いつつも、やっぱり日なたは暑いし陰から出たくないよなとも思ってしまいます。
 そこまで考えたところで、この歌が屏風歌、つまり実景ではなく絵を見て詠まれた歌だと気が付きました。

*1:「たまほこの」は道を導く枕詞です。

*2:参考:「拾遺和歌集新日本古典文学大系

鶴に心をみる

  松が崎
千とせふる松が崎には群れゐつつ
 鶴さへあそぶ心あるらし
清原元輔(拾遺/神楽歌*1/607)

 昨日、春の花を一緒に楽しんでくれない雁の歌のことを考えていたからか、この歌が目にとまりました。
 例えば花札で描かれるように、鶴と松がめでたいものだとさえ知っていれば、あまり解説はいらない歌かなと思います。「さへ」で、詠者の「あそぶ心」も前提として忍ばせてあるのがおしゃれだな〜って思っちゃいました。鶴が遊んでる風景を眺めてみると、のどかで落ち着く心地がしますね。
 あとは「あそぶ」に意味の重なりを見てもいいかもしれません。
 「あそぶ」には「遊ぶ」「自由に動き回る」の他に「詩歌や楽器を歌う、演奏する、楽しむ」みたいな意味もあります。拾遺和歌集の「神楽歌」の部立てには神事や祭礼、神社参拝に際して詠まれた歌が集められていますから、朝廷の神事、儀式に際して、雅楽が「あそ」ばれることは想像に難くないですし、そもそも和歌を詠んでいるのを「あそぶ」と考えてもいいかもしれません。いずれにしても視覚というよりは音声情報を表す意味が多いですね。ここまで考えてみると、鶴がただ楽しそうに動き回っているだけではなく、こちらまで鶴の鳴き声が聞こえていたのかもしれません*2
 

*1:これは生きていく上で最も必要ない情報の一つかもしれないのですが、拾遺和歌集の部立て「神楽歌」はどちらかというと「神祇歌」の内容です。

*2:ただ「拾遺和歌集新日本古典文学大系の脚注の訳では単に「遊び楽しむ心」とあるので、掛詞というよりは関連語彙を響かせる縁語くらいの理解に留めておくのが正解かもしれません。

雁生の半分

  歸鴈をよめる
はるがすみたつをみすててゆくかりは
 花なき里にすみやならへる
伊勢(古今/春上/30)

 「人生の半分損してるよ」というフレーズがありますね。誰かにコンテンツを勧めるときに用いられるこのフレーズを、私は複雑に思っています。意地悪に言葉尻を捕まえて、そんなに人の人生に詳しいなら人生相談とか占い師をはじめた方がいいのでは?と思う反面、逆説的に勧める側がそのコンテンツと出会った衝撃の大きさと熱狂を物語る点では素敵な表現だとも思います*1。この「人生半分損してるよ」というフレーズを使う時、話者の心にはどんな感情が混在してるのでしょう。
 歌を訳すなら「はるがすみたつをみすててゆくかりは」春霞を見ないで去っていく雁は「花なき里にすみやならへる」花の咲いていない里に住み慣れてるのだろうか、という感じでしょうか*2
 本当に疑問に思っているのかもしれませんが、結構意地悪な表現にも見えます。下の句なんか顕著じゃないです? 「あれ、春霞が立ってるんですけど、お帰りになる? へえ!全然花とかない暮らしに慣れてる感じなんすね!」みたいなニュアンスを感じるのは私だけでしょうか。
 けれど、詠者のことを嫌いになるか、と言われると全然そんなこともないのです。詠者は春霞が立って(春になって)花が咲くのを楽しみに待っていたのでしょう。だから、春を楽しんでいる時すぐ横で去っていく雁に、びっくりするし、自分が楽しみにしていたものが他者にとって大事ではないことを知って悲しかったり、自分が少数派のようで怖かったり、蔑ろにされたようで腹が立ったりするのだと思うからです。 
 何かに熱狂している自分と、そっけない他者という構図の類似から「花なき里にすみやならへる」を「人生の半分損してるよ」と超訳することも、できないことはないかもしれません。
 

*1:見境のない布教フレーズなのか、狂えるオタクである自己開示なのかで印象がだいぶ変わりますね

*2:参考:「古今和歌集日本古典文学大系

ぬかるみ

Or, by the moon embittered, scorn alound
In glory of changeless metal
Common bird or petal
And all complexities of mire or blood.
(「ビザンティウム」/ウィリアム・バトラー・イェイツ の一節より)(Byzantium / Willam Butler Yeats

というより、月光を浴びて怒り、大声で嘲笑しているーー
変わらない金属の栄光の中で、
ありきたりな鳥や花弁や、
ぬかるみとか血によるいざこざのことを。

(原文引用、訳参考「イギリス名詩選」平井正穂編)


 Splatoon3発売まで、恐ろしいことにもう2週間もない。先日の体験版で思ったことはたくさんあるけれど、システムや操作感についての話をしてもしょうがない。もっと感覚的なところでおもしろかったのはイカたちの潜るインクがSplatoon2と比べて少し粘り気があるように感じたこと。
 振り返ると相手のインクに足を取られやすかった気がするし、画面に表示されるインクの質感は前作よりもねっとりとした光沢を放っているように見えた。
 手近にあった「イギリス名詩選」をパラパラ読んでいたら、詩の中で繰り返されるmire という語彙が気になった。岩波文庫平井正穂訳では「泥濘」と訳されていて、英英では「deep mud」と説明されている。また「the mire」で「逃れがたいように見える悪い、または困難な状況」のことを指すらしい。
 ビザンティウム全体を通して、冷徹な理想とぐちゃぐちゃした人間の対比が描かれていて読んでてちょっと慌てた。自分が持っているより強烈な悲しみと切望を見たような気がしたからだ。
 言葉にすることで実情がわかることがある。私は「泥濘」という言葉を見た時に真っ先にSplatoon3のインクを思い出したし、待ち焦がれたタイトルの新作にズブズブにのめり込んでしまう自分がこわいと再認識して、くだらないこと*1で悩んでるなと少し冷静になれた。

*1:ちょっと言葉が強すぎる気もする。けれど、存在に絶望し変化を希求する言葉の連なりを読んだら、ゲームにハマるのが怖いという悩みは、とてもちっぽけなことのように思えたのでした。