わたいりカウンター

わたいしの時もある

四十音始終(三)



明るさは言い淀まない うぐいすの
永遠に鳴くおく山怖し

神さまは君の近くで朽ちちゃうし
敬虔だった子らも泣いてるし

淋しくてしょうがない 鼻をすすってさ
洗濯機まわすそれしかない

立ち食いの中華そば屋でつけ麺が
できるのを待つ 時計の針と

なれた足取りで人間のぬしとして
寝静まってからのり弁を食う

灰皿を引き出しから出しふつふつと
へらず口の聞こえる方を見る

マリオネットみたいな子って無視して
目がチカチカする もみじ浮く頬*1

ランドセルりょうてにかかえるんるん
レジのまえくる6さいのひと




*1:メモ


 今日はスプラトゥーン公式から前作で長年愛用していたブキの追加が発表されて、もうそれしか考えられなくなってしまった。古今和歌集を読んでいても気づいたらもみじという言葉を探していて、
この川にもみぢばながるおく山の
雪げの水ぞ今まさるらし
(古今/冬/320)
を見つけて「タイムラインにもみじ追加ツイート流れてきてテンション上がってるわたしじゃん!」と思ったりしたのだけど、それを文章で長々書くのは流石に歌に向き合えてなさすぎるし、デートで元カノの話ばかりする男のような気持ち悪さで横っ面を引っぱたかれても文句は言えなそうだったので、手を動かすことにした、という経緯があった。

夕焼け浦山

 

縄の浦に塩焼く火のけ夕されば

行き過ぎかねて山にたなびく

(万葉/巻三/354/日置小老)

 

 家の外から、人が笑ったりしゃべったりする声が聞こえると、ちょっと身構えてしまう*1。別に何か悪いことをしているというわけでもないし、なんかくやしい。

 歌は「縄の浦に塩焼く火のけ夕されば」縄の浦に塩を焼いた煙(が上がっていて)夕方になると「行き過ぎかねて山にたなびく」まだ漂っていて山にたなびいている、という感じの歌*2。海だったり山だったりが「火(ほ)のけ」煙を追っていくうちに自然と目に入ってくるスケールの大きな歌なのに、その煙が「行き過ぎかねて」と停滞しているのがおもしろい。夕焼けに照らされた煙は、さっき塩を焼いていた炎みたいに濃いオレンジ色をしていると思うと、背景の山の緑色と相まって綺麗だろうな……。

 ふと、このたなびいている煙は、別に夕焼けに染まりたくて染まっているわけではないんじゃない? とも思えてきた。もちろん、あのオレンジ色の煙はうんともすんとも言わない。たまたま風や気候の関係で「行き過ぎかねて」いるだけの煙は、別にそんなことは気にしていなさそうで、わたしが勝手に共感してみたかっただけだった。

 海に山に火に夕焼けに、あの煙はたくさん友達がいてうらやましい。たまたま夕焼けと山とスリーショット撮ってもめっちゃ綺麗だし、その在り方に、どんなシチュエーションでも気にせずたゆたっていられる余裕みたいなものが感じられて、外の声にいちいち身構えちゃうわたしとは正反対な気もする。

 時流に任せて行き過ぎかねて偶然夕焼けの中で綺麗なオレンジ色になった「火のけ」みたいに、自分の性格に嫌気と愛着を持ったままここまで生きてみて通行人の声をスルーできずに緊張しちゃうわたしにもハイライトがあったりするだろうかって、考えているうちに夜になってて煙もどこかへ行ってしまって、寒くなってきたからあったかくして、また歩き出して。

 

 

*1:遠くで鳴るバイクの排気? 音はむしろ景気いいな、と元気になります

*2:参考:「萬葉集(1)」日本古典文学全集

書けと導く埠を過ぎて

 

港出づる海人の小舟のいかり縄

くるしき物を恋と知りぬる

(拾遺/恋一/638/よみ人知らず)

 

 しばらく文章を書かないと、書くこと自体が億劫になってしまう。書かなかった理由はいくつかある気がしているけれど、たぶん一番大きいのは自分が停滞していることを実感したからだと思う。

 歌は「港出づる海人(あま)の小舟のいかり縄」船出する漁師の小舟の碇の縄「くるしき物を恋と知りぬる」その縄を繰るではないが、この苦しいのを恋だとわかったよ、という感じ*1。出港するときの碇の縄、というモチーフは、単に「くるしき」を導く序詞としてだけではなく、船旅の始まりを象徴するという点で「恋と知りぬる」(苦しいのが)恋だってわかった と詠むこの歌の核と響き合っているようでいて好き。

 自分の停滞に気づくと、ホメオスタシスというよくわからない外来語がふわふわした綿飴みたいに首の周りにまとわりついて、じんわり圧迫されているような恐怖がある。文章を書くということは、わたしが今のままでいることを決して許さないし、この歌の恋というのも停滞を許さない圧力がある。碇を引き揚げ、帆を広げろ。その恋を、書くことを、知ってしまったら、あたらしくなる義務がある。

 たまたま居合わせた同じ桟橋の向こうの船も、碇を上げて船を出そうとしていた。わたしも、もう観念して碇につづく縄を引く。船を固定できるほどの重さに、縄も腕も悲鳴をあげていた。向こうの縄からも同じような音がする。わたしも、向こうの水夫も、その視線を、縄の先の水面の奥に注いでるのがわかるから、お互いに目を合わそうとはしなかったけれど、その気配はたしかにわたしを勇気づけたし、向こうもそうであったら、ちょっとうれしい。

袖が凍る前に

降る雪に濡れきて干さぬわが袖を

こほりながらも明かしつるかな

(重之集/289)

 

 ひさびさに銭湯に行って、自分の体温より5℃くらい高いお湯に浸かった。気づけば、実に半年ぶりの湯船だった。めんどくささが先行していつもシャワーで済ませていたのだ。外側から物理的に温度をもらって否応なしに元気になるこの感覚を、もう随分忘れていた。

 冒頭は冬の寒さの中で夜を明かす(のがつらい)歌。降っている雪に濡れるのが乾かず、自分の袖が凍ったままで夜を明かしているよ*1、と歌っている。雪が衣服につくと体温で一度溶けて服にしみて、それから気に冷やされて凍る、という一連の流れが丁寧に描写されていてそれだけで読みごたえがあるし、それは同時に重之が寒いこと以外に何も考えられないということかもしれなくて意外と情報量が多い。

 なんとも寒そうな歌だな、と思ったのだけれど、私にそんなことを思う資格があるのだろうか? とすぐに思い直した。半年くらいの間湯船を軽視していた私も、自分の体を冷やしたままにしていて寒そうだからだ。

 重之に「わたしも半年くらい全然風呂入ってなかったから、寒かったわ〜」と共感のスタンスで近づいていったら、「いや、いつでも風呂に入ろうと思えば入れたんじゃない?」と冷静にたしなめられて、それはその通りだな、と納得してしまった。私はリマインダーに風呂を登録しないといけない人間だった。これからはもっと寒くなるし、ちょくちょく湯船に浸かり温度をもらっていこうと思う。だから重之も、どうかいいタイミングであったかくしてほしい。

*1:拙訳

戻れない

 

月をおもふあきのなごりのゆふぐれに

こかげふりはらふ山おろしのかぜ

(新勅撰/冬/390/慈円)

 

 今日は水族館に行った。親子連れが多くて、邪魔にならないようにいそいそと回ってしまっているときは楽しくなかったけれど、身長の3倍はあろうかという大きな水槽の前のソファに座れて、そこでまったりできたのがよかった。

 でかいエイはかわいいし、圧倒的な存在感があった。エイを避けるように、細かい魚が群れをなして、キラキラと光を反射させながら動いているのをぼんやりと目で追っていた。マイペースに泳ぐ大きめのハリセンボンの下顎を眺めるのも心地よかった。水槽が縦に大きいと水族の迫力をたのしめるし、相対的に人間の無力感を肯定できるのもいい。

 歌は秋を惜しんでいたら冬を突きつけられた歌。訳すなら「月をおもふあきのなごりのゆふぐれに」月を思っていた秋の気配の残る夕暮れに「こかげふりはらふ山おろしのかぜ」木の影を勢いよく払うよ、山おろしの風は*1、という感じか。もう冬なのだなと、思わず腕をさすってしまった。下の句など、枯れ葉が吹かれて鳴る乾いた音が聞こえてくる。

 季節の不可逆性ーーもう秋ではなく冬なのだと、山おろしの風で気づくというのは、人の力では季節などというものはどうにもできない、というところで、大きな水槽の前にいるときの無力感にも似ていた。

 それにしても、あれだけの生物が水槽の中でそこそこのスピードで動いているのに、こちらには全然音が聞こえてこないのはかなり違和感がある。ふと、指と指の間にある水かきの名残みたいな曲線を眺めているうちに、人間というのは海から陸に上がってきた流れの突き当りの1つなのだと思いだす。慈円が、もう秋には戻れないことを木枯らしに舞う木の葉の音で気づいた脇で、わたしは無数の水族ひしめく水槽の静けさに、水の中には戻れないなと思う。エイの腹に空いた顔のような穴が、さっきまで可愛く見えていたのに、今はなんの感情も見いだせなかった。

*1:拙訳

遥かな冬の海にて

 

わたのはらやそしましろくふるゆきの

あまぎるなみにまがふつりふね

(新勅撰/冬/426/正三位家隆)

 

 よく鶏むねを冷凍するのだが、最近、若干のつらさを感じている。調理のときは、電子レンジに半解凍をお願いしてから切るのだが、それでも抑える手が冷たくて仕方がないのだ。夏にあってありがたかった、あの心地いいつめたさの面影は、もう微塵も求めようがない。冬が来たのだ。

 歌は冬に覆われゆく生活を歌っている。「わたのはら八十島しろくふる雪の」広い海、一面の島々を白く染めて降る雪の「あま霧る波にまがふつりふね」あたりを白く霞ませる波に紛れてしまう釣り船よ*1。わたの原、八十島、天霧る、とスケールの大きな言葉たちが歌を映し出すスクリーンを押し広げていて、その広い画角一面に白く覆いかぶさる降雪の範囲もさらに広大であることを伝えている。そうして、冬 という季節をなるたけ大きく切り出しておいて、白い雪や波しぶきに紛れてしまう、1隻のつりふねを描く。なんとも寂しくて、心もとない。

 でもそんな一面に白の飛び交うつめたい景色に浸っているうちに、厳しい季節の中で生きる人間のたくましさのようなものがうっすら感じられてきて、ちょっと勇気をもらった。冷たい海に生きる糧を求めるのは、秋の蓄えが足りなくなったからかもしれないし、冬に新鮮な食材を求めてのことかもしれない。消極的か積極的か、動機はわからないけれど、あのつりふねは、冬を生きるために海へ出ているから。

*1:拙訳

四十音始終(二)



朝焼けの色はまだらに浮雲
エンジン音がおはようと言う

書き初めの機運高まる 靴下は
健康だからここに穴あく

さみだれを知りたい人はすぐにでも
世知辛くても外に出てみて

太陽とチャンスがあれば付き合って
手を繋ぐまで遠回りしたい

習い事日曜日さえ盗んでく
寝ている母はのどかそのもの

はさみうちひどいと思う 吹くからに
壁面塗装はほぼ断熱でも

マスクつけ見た目わからず無視してた
面と向かってもちを食うまで

楽にして。陸続きでしょ?類人猿
連絡帳を路地に届けて