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わたいしの時もある

ゆきつもる

 母方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていて、父方の祖父も私が小学生の頃に亡くなってしまった。買ってもらったおもちゃのことは思い出せるのに、おじいちゃんとの記憶はあんまり思い出せなくてなんだか申し訳ないと思う。

 源重之(しげゆき)という人物とその歌が最近気になっている。個人的にかなり興味を持っている歌人藤原実方(さねかた)というのがいて、彼のある歌がいつまでも頭から離れなくて、どう意味なのだろうと折に触れて考えさられている。その実方は晩年、陸奥守に任じられそこで没したと言われているが、その時一緒に陸奥へ任ぜられた同僚が源重之であった。二人とも百人一首に歌が選ばれているので、重之の百人一首に選ばれている歌を読んでみたのだがいまいちピンとこない。
 そこで国文研の二十一代集データベースから重之の歌を調べていたら、拾遺和歌集の冬の巻末を飾った重之の歌を好きになってしまったのでここで紹介させてほしい。
 
 百首歌の中に 源重之
ゆき積もる己(おの)が年をば知らずして
 春をば明日と聞くぞうれしき(拾遺・冬262)

雪のように積もっていく自分の年に気づかないで、明日は新春だと聞くのはうれしい
というような訳になるだろうか*1
 この頃は年齢を数え年で考えていて、みんなが年を重ねるのが一律1月1日であった。そしてこの頃の春とははっきりと1,2,3月の3ヶ月のことだった。つまり、春の始まりと自分が歳を重ねるのが誰しも同じ瞬間だったのである。
 若い頃ならいい。歳を重ねることは将来の希望であり、新春の賀を楽しむ余裕がある。でも、歳を重ねるごとにそれは自分の老いに直面する煩わしいのイベントになっていく。
 例えば古今和歌集の冬の巻末は紀貫之が歌っているが
ゆくとしのをしくもある哉ますかがみ
 みるかげさへにくれぬとおもへば (古今・冬342)
と、行く年(年が暮れるの)が惜しいなあ、くすんだ鏡に映る自分の老いた姿を見るにつけても年を実感させられるので、
というなんとも哀しげな歌いぶりである*2
 ひるがえって重之の歌はどうだろうか。自分の年を気にせずに、無邪気に新春をよろこんでいる様子にこっちまでにこにこしてしまいませんか?
 拾遺の「百首歌の中に」の百首歌というのは、重之が若い頃に作ったとされる自作百首のアンソロジーのことだと考えられる*3ので、おじいちゃんが柄にもなく新春を喜んでる様子、というわけではないのですが、なぜだか私が初めてこの歌を読んだとき喜んでいるおじいちゃんの顔が思い浮かんだ。
 
 遺影のおじいちゃんはにっこりしている。もっとこの顔を記憶の引き出しに収められたらよかったと見るたびに思う。


 

*1:参考:新日本古典文学大系 拾遺集 1990

*2:参考:日本古典文学大系 古今和歌集 1958

*3:参考:百人一首 安東次男 1976