ギターのひずんだ音に、やり場のない焦がれるような熱量を感じる。希望が輝いて見えるのは、自分の周りが暗いからだろう。
では自分の周りが明るいときはどうか。
そういえば昔の歌に、もっとふんわりした明るさに満ちた歌があった。
ほのぼのと 明石の浜の 朝霧に
しまかくれゆく 船をしぞおもふ
(古今和歌集 羈旅 409)
遠く、朝霧にまぎれてぼんやりと見える船影が、島影に隠れて見えなくなってしまう様子を詠んだ歌。船に乗って離れていってしまう知人を思う歌と解釈するのが一般的に思われるが、自分が乗ってきた船が故郷に向かって帰って行くのを見て、置いてきた家族のことを思う歌と考えることも出来るかもしれない。
鮮烈な別れ、というわけではない。自分と船の間にはまず距離があり、朝霧があり、そして島が間に入りつつあり、いまにも見えなくなりそうになっている。別れはだんだんと近づいてくる。
船影は朝霧でよく見えなかったのではないか。だからこそ目をこらし、朝日が照らした船の影を目で追った。島影に隠れて見えなくなるまで。そこには短くない時間がある。その時間はそのまま、船への、人への執着ともいえるだろう。
じゃあ、船が見えなくなった後は?
そこまで考させるだけの余白もこの歌にはある。
登りゆく朝日に照らされて、だんだんと霧が晴れる。そうしたら、船影のないのどかな水面が太陽を映してきらきら輝くのではないか。それを眺める心の裡には、なにか、はっきりとした感情が立ち現れているのではないか。そう考えずにはいられない。
歌は、あくまでも船が隠れていく瞬間を歌っている。まだ感情が言葉になる前、まだ朝霧がぼんやりとした明るさをたたえているその瞬間を。