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「まかす」の意味・文字起こしについてのエッセイについて

 正しいって思い込んでいたことが、考えたり試みていくうちにそうでもないと気づいたりする。そのたびに性格が慎重に臆病になっていく気がする。

  •  「まかす」ってなに? 

けふきけば 井手の蛙も すだくなり

 苗代水を 誰まかすらむ (重之百首・春)

 

 井手(いで):

京都府南部、綴喜(つづき)郡の地名。左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が別荘を置いた所。西流する玉川は山吹と蛙の名所として知られた。[歌枕]

②田の用水として、水の流れをせき止めてためてある所。井堰(いせき)。*1

 すだく(集く):集まり鳴く

 苗代水:稲の種を田植えできる大きさまで育てる苗床、そこに張っている水。

 まかす:???

 春の訪れを、今日耳を澄ませたらかえるが集まって鳴いているのが聞こえたことにつけて歌っている。上三句から大意はわかったのだが、末句誰まかすらむの「まかす」がわからない。

 「誰”かま”すらむ(誰か増すらむ)」の誤字かとも思った。それなら「らむ」*2の接続も終止形で「増すらむ」と一見おかしくはないが、推測の域を出ない。観念して調べると

 まかす(引す):田や池などに水を引く。*3

 ということだった。引すと書いて「まかす」!かつて「すだく」を「集く」と知ったときもそうだったけれど、知った気になっていた漢字が、古語で違った読み方があることを知るのは、うれしさとくやしさの混じった、痛いけど気持ちいいマッサージを受けているような気持ちになる*4

 というわけで無事「まかす」の意味がわかった。拙くも訳を試みるなら

今日聞いたら (かえるの名所でもある)井手の堰のかえるも 集まって鳴いている

 苗代水を 誰かが(田んぼに)引いたからだろうか

 という感じか。堰が切られ、田んぼに水が注がれて、そこでかえるが鳴いている。そこから、水を引いた誰かを想像するという和歌らしい迂遠さがある。思考の流れが、かえるの鳴き声、水を引いた人を通って春に注がれていく。

 それにしても、一瞬であれこれは筆記者のミスではないかと「誰か増すらむ」説を考えてしまった。情けない。誤字はなかったのだ。

 

  •  私的文字起こしの深淵

p-dress.jp

歴史的なニュースでもちょっと気の利いたコメントでもなんでもない、本来なら誰の記憶にもとどまらないはずの“たしかにあった一瞬”が、いま自分の手のなかで文字となって記録されていることに、得体の知れない興奮を感じたのを覚えています。

 音声情報をテキストに落とし込む、仕事としての「文字起こし」の話しから始まって、筆者が個人的にテレビや日常を「文字起こし」するようになって……というエッセイで、読んでいてかなり共感してしまった。ある。私も文字起こしに傾倒していたことが。

 お酒が飲めるということになって、知り合いのバーにボトルを入れて入り浸っていた時期のことだ。ある曜日のバーテンダーさんがとにかく博識で、転がっていく場の会話に歴史や音楽の話を自然に絡めるのがとても上手だった。  

 私は「会話ってこういう風にもなるんだ!」という感銘と尊敬、それからこの豊穣な時間のことがどこにも残らない惜しさ、いつかそれが自分に身についたりしないだろうかという淡い希望をもってその場でメモをするようになった。

 ロックグラスやコースター、おつまみの入った小皿の影に小さなノートを広げて、どの話題からどの話に寄って、この話題に収束していったこと、場の雰囲気、かかっていた音楽などをつぶさに書きなぐっていた。

 あとで見返すと、酒気帯び筆記で文章は読みづらかったり飛んでいたりした。そのときのことを思い出せるのは半々くらいで、そもそも読み返さなかったりこともあった。でも書いてるときはとても気分がよかったのだ。いつしか「書き残す」という行為の中毒になってしまっていた。

私がその「文字起こしの日々」とも言うべき熱狂的な日々から脱出したのは、いま思えばかなり自覚的なことでした。趣味の文字起こしを続けるうちに、だんだんと、起こされる対象であるはずの「会話」と起こす「文字」との主従関係が逆転しているような感覚が増していってしまったのです。つまり、ドラマを見たりバラエティを見たり、人と会話を交わしたりしていても、「あー、早く家に帰って文字起こししたいな」としか思わなくなっていき、そのことに強い危機感を覚えたのでした。

  だから「主従関係の逆転」というフレーズにぶんぶん首を縦に振って同意してしまう。エッセイの中で筆者は「文字起こししたい」という思考が、楽しい時間について回って大きくなってしまうことに危機感を覚えている。それに対してバーでの私は、自らも参加して楽しい時間を主体的に共有するはずが、会話に加わらないまでもメモをとることに多くのリソースを割くようになってしまった。思考どころか、参加するという行為さえ損なわれている分、よりたちが悪かった。

 ……このエッセイ、興味を持って実践するなかで、超えてはいけない一線のようなものに気づくくだりがとても子細にリアルに書かれている。その迫力に、大切にしたくて熱量を注いでいくうちに、ふとそのいびつさに気づいて冷めてしまう時の、気恥ずかしさとさびしさがまざったような記憶を惹起させられてしまってよかった。

 バーの隅でメモをとっているとき、必死だった。私が憧れた会話って何だったのだろう。いろんな人が集まって、飲み食い、おしゃべり。そんななかで、たまに妙な掛け合いが成立したりする。人が知って経験してきた、生きてきた流れが、他の人のそれと合流して、大きなうねりになったりする。

 人のいないバーは、水の引されていない田んぼのようなものかもしれない。踏み入れたお客さんは各々水を注いだり注がなかったり、意図して自分の求めるように振る舞うだろう。そうして場は築かれていく。けれど、その日の盛り上がりに期待しメモをとっている間私は、ただ何も考えず水を注がない、堰の閉じたつまらない人間だったかもしれなかった。

 

*1:井手(イデ)の意味や使い方 Weblio辞書

*2:現在の推量、原因推量、伝聞推量の助動詞。

*3:「まかす」の意味や使い方 Weblio辞書参照。他にもまかすは北海道の方の方言で「撒かす」水や飲み物をこぼす意味の動詞としてつかわれるらしい

*4:整体のたぐいにお世話になったことは、まだないけれど