- 鹿の子まだら
先日海に鹿が現れて鳴いている歌を見つけて考えていたけれど、源重之の歌集に海と鹿の取り合わせが歌われているものを見つけたのでそれについて調べたことなどを書いていきたい。
見よや人 志賀の島にと 急げども 鹿の子まだらに 波ぞ立ちける(重之集5番)*1
【拙訳】
なあ見てくれ 志賀島へ 急いで向かってたんだけど
鹿の子まだらに 波が立っちゃってたよ(だから結局時間がかかる)
重之のお父さんは元々京都に住んでいたんだけど、任地の東北にそのまま住み始めてしまったので、重之は京都の親戚の家に養子に入って朝廷に仕えた。
けれど、お父さんもそうだったからか重之もいろんなところに出張させられていて、旅のつらさをよく歌っていた。これは九州の方へ任ぜられたとき、大陸との貿易拠点でもあった福岡の志賀島へ視察に向かったときの歌だと思われる。
海の波立っている様子を、山の鹿の模様に例えるのは印象的だと思ったが、単に志賀と鹿をかけているだけかも知れない。その傾向は次の6番にも現れてて、
秋来れば 恋する鹿の 島人も 己が妻をや 思ひいつらむ(重之集 6番)*2
【拙訳】
秋が来たら 恋する鹿ではないが志賀の 島の人たちも
自分の伴侶を思って 思い焦がれているのだろうか
とあり、鹿の伴侶を思う心を志賀の島の人に重ね合わせている。
前歌の鹿の子まだらな波だけでなく、鹿の声を想起させるものが志賀の島の周りにあったのではないか。以前の記事で考えたように、やっぱりカモメの声と秋の雄鹿の声は似てるよね?と千年以上昔の人に時を超えて聞きたい気持ちがわき上がってくるけれど、そんなに時間さかのぼって聞くことがそれかよ、と辟易されそうである。
ちなみに「島人(しまひと)」という表現は万葉集中には見つからなくて、二十一代集中にも四例しか認められない珍しい表現のようである。
その四例の中の一例が藤原実方の
あけかたき 二見の浦に よる浪の 袖のみぬれて おきつ島人 (新古今1167恋三)*3
であり、「島人」の語は重之の歌の影響があったのかもしれない。最終的にお互い人生の終盤で同じタイミングで東北に任ぜられる重之と実方の関係は、仲が良かったとは言えなくも、お互いの和歌を知っている位の間柄だったとは言えそうなのではないかと思う。
- NHK短編映画 電話 その周辺の記録
志賀の島のことを調べていると、NHKアーカイブで1956年頃の福岡の紹介の中で志賀の島が触れられているのを見つけた*4。九州からみる志賀の島の間の海がきらきらしていて、今見に行くよりも重之の見た志賀の島の風景に近いかも知れない。
ところでこのNHKアーカイブ、冒頭三分ほどとは言え、いろんな時代の映像を見ることが出来るのが楽しい。観た映像の中で印象的だったのが「NHK短編映画 電話 その周辺の記録」である。
1960年代には、いまは数を減らしている公衆電話がいかに生活になじんでいたか、電話を片手に話す人たちの映像を交えながら語られるもので、その当時の家族との距離感だったり服飾だったりが今と違って見ていて新鮮だった。
中でも目を見張ったのは、公衆電話から回収してきた十円玉を袋にまとめる映像だった。袋に詰められた大量の十円玉を引きずって動かすおじさんが最後によろけるシーンも、動画のアニメーション的なおもしろさが詰まっていてよかったし、1951年から1958年にかけて発行された十円玉は縁に百円玉と同じような無数の溝がある、いわゆるギザ十*5であり、集め、数え、袋詰めされていく十円の多くがギザ十であった。時代である。
離れた場所の地層の堆積年代を比較する方法に、火山灰が含まれる層を基準にするやりかたがあるが、ギザ十もその時代を象徴するものの一つと言えそうである。
あるいは「島人(しまひと)」という言葉も、重之と実方の歌の中に地続きになっている、共有する部分があるといえる手がかりの一つかも知れない。