わたいりカウンター

わたいしの時もある

食べられなかったマグロのタタキ丼の行方

 百首歌たてまつりし時 二條院讃岐
散りかかる紅葉の色はふかけれど
 渡ればにごる山川の水
  (新古今/秋下/540)

 この間病人にご飯を作る機会があったのだが、作れと言われて作ったのに食欲がないからいらないと言われた。自分でも狭量だと思うがちょっと不満を感じてしまった。けれどその時脳裏に浮かんだのはマグロのタタキ丼であった。
 私もある。食べたいと言って食べられなかったことが。
 幼い頃風邪か何かで親に車で病院に連れて行ってもらった帰り道、「何か食べたいものはあるか」と問われ高熱の頭でなんとかひねり出したのがマグロのタタキ丼だった。
 お昼過ぎのファミレスでテーブルに運ばれてきたマグロのタタキ丼は、赤々とした光沢がありとても美味しそうだったのだが、二口食べたあたりで普段感じなかった生臭さに襲われ、結局あとは親に食べてもらった。
 子供にとって殊に特別である外食で、食べたいと思ったものが目の前にあるのに食べられず、親に食べてもらうのは色々と申し訳なくて強烈に記憶に残っている。
 冒頭の歌は、川に見える散った紅葉は色が深く染まっていて綺麗だが、(その川は浅かったので)渡ると水底の泥が舞い上がって濁ってしまうというような意味だろうか*1
 綺麗な紅にもっと近くで楽しもうとしたら、却って濁ってしまうというのは、マグロのタタキ丼が食べたいのに食べられなかった私みたいだなとちょっと思った。
 あの時食べられなかったマグロのタタキ丼は、たまに頭の中に現れては、病人には優しくすることを促してくれる。
 この歌を詠んだ二條院讃岐も、この失敗はあるいは風物の楽しみ方を再考させられるきっかけになったかもしれない。
 私のホスピタリティの何割かはあの時のマグロのタタキ丼でできている。