世とともにあぶくま河の遠ければ
そこなる影を見ぬぞわびしき
(後撰/恋一/520)
コンビニで働いていた期間が5年ほどある。お世話になっていた店舗には外国人アルバイトが多く、一緒にシフトに入った日本人は店長くらいだった。中央アジアやベトナム、中国、ミャンマーなど同僚たちの出身国はさまざまで、出稼ぎだったり勉強だったり働く理由も色々だった。
しかし彼らは不慣れな日本語を果敢に使ってレジ接客し、入荷したおにぎりやパンを並べていた。わからないことがあったらなんでも聞いてくるし、暇さえあれば難しい日本語について質問してきた。その明るさとバイタリティに気圧されながら尊敬もしていたと思う。日本人が職場で1人だからと言って孤独を感じることはあまりなかった。
ところで今働いている職場は全員日本人なのだが、最近同じ仕事をするある同僚とどうにも仲良くなれない。
ふった仕事以外のことをして全体のスケジュールが遅れたり、コミュニケーションがうまく取れなかったりするのだ。
説明不足だったりこちらにも落ち度があるのだと思うのだけれど、ふとコンビニの同僚たちを思い返しては外国人「なのに」すごい、というよりも外国人「だからこそ」強い熱意で取り組んでいたのだとようやくわかった。
冒頭の歌は、世の中あぶくま河は遠いから、川底にある姿ではないがそこにいらっしゃるお姿を見ることができなくてつらい*1、というような意味になるだろうか。
あぶくま川は陸奥の河で、勅撰和歌集の多くの歌は京都の周辺で詠まれた歌だ。この歌は恋歌で、あふくまには「逢ふ」が掛けられている。京都から遠く東北の川を思う遠さと、川底に映るはずの、すぐ近くにあるはずの姿が見えないのをわびしく(つらく)思っている、誰かを恋しがる歌である。
最近その同僚と働いている時は、なんだかひとりで働いているような気持ちになる。……相手も同じ気持ちだったりするのだろうか。
歌のように恋をしているわけではないが、仲良くならないまでも、うまく意思疎通ができるようになれたらいいとは思う。