はなはだも降らぬ雪ゆえこちたくも
天つみ空は曇りあいつつ
(万葉/巻十/2322)
今干しても雨に降られそうだから。そう思って洗濯物を干さずにいたことがある。たぶん多くの人があるだろう。だからこういう時に何があるかはご存知の通りである。気を利かせた時に限って、雨は降らないのだ。あの時の切ないような、ちょっと天気に対して腹が立つような、降らなければ洗濯ものが干せるのにもういっそ雨降れよと思ってしまう独特の心の動きは、どうやら今に始まった事ではないらしい。
冒頭の歌は、たいして降りもしない雪だから煩わしいんだけど、空模様は曇っている今であるよ*1、というような意味になるだろうか。降る降る詐欺ではないけれど、『閃光のハサウェイ』の某台詞ではないけれど*2、今にも降りそうでいていつまでたっても降ってこない空模様はずっと前からヤキモキされていたらしい。
我が背子を今か今かと出で見れば
淡雪降れり庭もほどろに
(万葉/巻十/2323)
この歌は先程の歌の次に万葉集に並んでいる歌だ。
訳すなら、私の大事な人を今か今かと思って家から出てみると、淡雪が降っているのだ、庭にうっすらと*3、というような意味になるだろうか。
この歌を読んでいて、この歌の作者にとっての我が背子、大事な人が帰ってくるだろうかとやたらに心配になってしまった。歌としてそういう要素があるのだから、感情移入するのは自然なことにも思うが、自分のその心の動きがなぜだか腑に落ちなかった。
ハッピーエンドを信じてもいいはずなのだ。大事な人は無事に帰ってくると。
それをさせないのは淡雪の儚さ故だろうか。それとも背景にある冬という季節の厳しさからだろうか。いや、確かに理屈の上ではそうかもしれないが、私はあまり雪の降らない町で育ったせいか、雪にも冬にもそういう感情はあまりない。
そうして考えていくうちにふと冒頭の歌、前に並んでいた歌のことが思い出されて、すとん、と腑に落ちた。
前歌の降りそうで降らない雪の構図に引っ張られたせいで、大事な人も帰ってきそうで帰ってこないのではないかと思ってしまったのだ。
待っている通りにならないこと。もしそれが悪いことなら、取り越し苦労だったと笑い話で済むだろう。
けれどそれが、いいことだったら?自分にとって大事な人が待てども待てども帰ってこなかったなら。
それはただただ悲しい話になってしまう。
前の歌で待てども降らなかった雪があっさり降っているのも、いかにも不穏である。
この2首が並んでいることで、自分の中にあったたくさんの感情を俎上にあげることができた。この並びを考えた編者に最大級の敬意を。