題知らず
かきくらし霰降りしけ白玉を
敷ける庭とも人の見るべき
(後撰/冬/464)
視界を埋め尽くすくらい霰よ降りしきってくれ、白くて丸い石が一面に敷いてある庭かと人が見るほどに、というような意味になるだろうか。
この歌、最初に読んだ時は自分の貧乏性に照らし合わせて、あまり庭の景観にお金を使いたくない人が本当に景観が良くなることを期待してあられが降ってほしいと詠んでいるのかと思って、ちょっと親近感が湧いた。けれど、ふと違う考えが頭をよぎった。
定期試験前に「いやー全然勉強してないわ」とか言ってる奴は大概勉強してるなと思っていた昔日あの頃。
あの頃のことがしきりに思い出された。もしかしてこの歌を詠んだ人の庭はもともと綺麗なのではないか。わかるーと共感したその実、私の不勉強を貧乏性を暴露しただけになってるのでは?と不安になった。
最初にちょっといいなと思ったものが実は正反対のものだったりすると、単に苦手に思うより自分の欠点にも直面させれてしまってつらいなと思う。
と、思っていたらそのちょっと先にもう一首あられの歌があって、なるほどと膝を打った。
霰降るみ山の里のわびしきは
来てたわやすく問ふ人ぞなき
(後撰/冬/468)
歌意は、あられが降っている深山の里のつらいのは、来て気安く声をかけてくれる人がいないことだなぁ、というような意味になるだろうか。
同じ霰が降っている歌でも、深い山奥の里で、霰も降っていたら人全然きてくれなくてつらい、という歌だが、ここでようやくあられが降っているというのは人が来ないということだ、ということが切々にわかった。
翻って冒頭の歌を読み返すと、人が来るはずがないような天気なのに、誰かがほめてくれるくらい綺麗になることを期待してたくさん降れよあられよ、というような歌だということがわかる。謙遜ではなく、むしろ自暴自棄というか、あられももういっぱい降ったらいいと思う、庭も綺麗になるし、まあこんな天気で訪ねてくる人もいないけどね!というような、窮地にあって開き直る気持ちのいい詠者の性格が伺える。私はそういうやつと友達になりたいです。読み人の記述はないので誰なのかはわからないけれど。
結局、一周回って冒頭歌がめちゃくちゃ好きになってしまった。