わたいりカウンター

わたいしの時もある

それしか考えられない

春日野の浅茅が原に遅れゐて

 時ぞともなし我が恋ふらくは

 (万葉/巻十二/3196)

 この8月、右手首が骨折していた。朝起きて激痛が走り、捻ったのではないかと1日冷やして様子を見ても全く収まる気配がなく、むしろ痛みを増していた利き手の手首は翌日整形外科で折れているということが判明した。
 急に何もできることがなくなって、ものすごく困ったし、それ以上に怖かった。文化に置いていかれる!一瞬一瞬腐っていく!そんな危機感だけがあった。最初はあまりの痛みにずっと寝ていたのだけれど、痛み止めが効くくらいになってきてからは、ドラックストアで値引きされている菓子パンを漁るほかは、ひたすら有料動画配信サービスのお世話になっていた。
 冒頭の歌は、春日野の浅茅の広がる野原に取り残されて、いつでも私は恋しく思っている*1というような意味になるだろうか。
 遠距離恋愛の典型的な歌ではあるが、丈の低いススキのような植物、茅の生い茂る野原に残されている、というところに特徴がある。
 単に代わり映えのしない日常描写をするのではなく、一面同じ植物が生い茂っているところに取り残されて、だからいつ何時もあなたを思いやることしかすることがない。そんなニュアンスが伴って、単調な身の回りからうける焦燥感、恋焦がれる心が際立っていてわからされてしまう。
 同時に、あの骨折した時の菓子パン、カップ麺、バナナをローテーションしながら、何かやらなきゃ何かやらなきゃと急かされるように映画ばっかり見ていたあの時期のことを重ねてしまう。
 冒頭歌の作者には、その時間は無駄ではないよと伝えたい気持ちがある。けれど、未来の自分が果たして骨折していた8月のことを肯定的に振り返るかは、まだちょっとわからない。