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わたいしの時もある

漠然とした期待の裏地

わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの

雲ゐにまがう沖つ白波 (百人一首/藤原忠通/79)

 大海原に漕ぎ出してみると、白く輝く雲と見間違えるような沖の白波が見える、というような意味になる。
 この歌、皆さんはどういうイメージを持つだろうか。
 清々しい海の景色、明るく輝く白雲と見間違えるほどの白波が遮るもののない海上で水平線いっぱいに見える、そういう歌と取るのが一般的のようである。
 藤原忠通摂関政治で権勢を極めた人物である。道長の「欠けたることのなしと思えば」よろしく、政治権力を欲しいがままにしていた摂関政治の長としての万能感を、遮るもののない景色を通して描いた歌、とするような先述の解釈もなるほど、有力だよなと思わされる。
 ただ、最近は来月からの新しい職場への期待と、それと同じくらいの不安を持って生活していて、だからかちょっと違う読み方をしてしまった。
 雲ゐとは単に大空を指す場合もあれば、宮中、つまり政治の中心部を指す場合もある。もし雲ゐを宮中ととるなら、それが「雲ゐにまごう沖つ白波」沖の白波であった、とはどういう意味だろう。
 忠通は藤原の栄華を極める権力を手にしたとき、こんなものか、と思ったのではないか。最高権力者とはいえ実務も当然行わねばならなかっただろう。掴みどころのない雲のように、漠然と良いもの、必要なものと思って手に入れた権力が実際には乗りこなさねばならぬ荒波でもあると実感をもって過ごしていた日々もあったのではないか。
 また波が白く見えるのは海が荒れているからでもあるのではないか。遠目で見ればきれいだが、船のうえにあって目線の先にある白波は、これから乗りこなすべき課題でもあっただろう。
 こうしてみると清々しい海の景色の裏の側面、実際にきれいな白波が目の前にある時、それは荒波なのではないか、という単なる景色を歌った歌とは別の側面も見えてくるような気がする。勿論、景色を言祝ぐ歌という解釈が有力なのは言うまでもないけれど。
 これから私が就く仕事は個人的に憧れを持っていたもので、それを自分の能力を精一杯ひっくり返して並べて積み上げてようやく片手が届いたというような塩梅である。そんな仕事への漠然とした不安が、この歌を単に景色を言祝ぐ歌に読ませてくれなかった。