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わたいしの時もある

夜に立つ霧の歌3首

ぬばたまの夜霧の立ちておほほしく

 照れる月夜の見れば悲しき(万葉集/巻六/982)*1

「ぬばたまの夜霧」という表現は、枕詞の「ぬばたまの」で57577のキャンバスを真っ黒に塗りつぶして、その上から白を霞ませながら乗せていくようなイメージが浮かんで魅力的に感じてしまった。万葉集では3首あるらしいのでうきうきしながらそれぞれ見ていた。
 まず冒頭の歌は、夜空に夜霧が立ちこんでいて、ぼんやりと照っている月夜を見ると悲しい、という歌。
 情感たっぷりにそこはかとない悲しさを読んでいるというよりは、シンプルに月の光が遮られてしまっていることを悲しがっている歌。
 風物の魅力としては、夜霧よりも月を評価している歌とも言える。私が魅力を感じた夜霧は邪魔者扱いである。

ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手の

 高屋の上に棚引くまでに(万葉集/巻九/1706)*2

 夜空に夜霧が立っている、高屋の上に棚引くくらいに、というような意味。
 建物であろう高屋が読み込まれることで、夜霧がどこに立っているかが明確になっている。何かを遮る夜霧というよりも夜霧そのものを読んでくれていて、わかる、いいですよね夜霧〜と思ってしまった。比較的中立の立場で夜霧を詠んでいるだけで好意的かどうかは確信は持てないけれど。

ぬばたまの夜霧隠(こも)りて遠けれど

 妹が伝(つたえ)は早く告げこそ(万葉集/巻十/2008)*3

 夜に夜霧が隠っていて遠く離れているけれど、妻の手紙は早く、はやく告げてほしい、というような意味。
 ここでは夜霧は、遠く離れている愛妻の手紙がなかなか届かない障害の一つになっている。
 ここでようやく夜霧というものが、割と危険なのもなのかもしれないと思い始めた。旅路で夜霧が立ち込めたら、視界が悪く事故の元だろう。単に風物を隠したり、愛妻との間を阻むものというよりも、旅人からしたら夜により一層の注意を促すものであり、誰かを待つ身からしたら旅先の大事な人を心配してしまう現象でもあったのかもしれない。
 道も街灯も整備されている現代に生きる人間として魅力を感じた「ぬばたまの夜霧」という表現は言語表現として綺麗であったとしても、万葉の時代には夜の危険に拍車をかけるものでもありそうで、もし万葉歌人に会えたとしてもあんまり「夜霧が好きなんですよね〜」とは言わない方が良さそうだ。

*1:大伴坂上郎女の月の歌三首のうちの一首

*2:舎人親王の御歌一首

*3:秋の雑歌