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わたいしの時もある

冬と春の境目

 万葉集の冬から春に変わる頃の歌を2首紹介したい。

梅の花降り覆ふ雪を包み持ち

 君に見せむと取れば消につつ
  (万葉集/巻十/雪を詠む/1833)

 梅の花を覆うように降り積もっている雪を手で掬って持って、あなたに見せようと取ったらとった先からとけてしまう、という歌。
 最後の「つつ」は現代でも「ラジオを聴きつつ夕飯を作る」のように、同時に何かをするときに使う語だが、ここでは消えるに付くことによって、じんわりと体温で触れた先からとけていってしまう様子がありありと伝わってきて一首を素敵なものにしている。
 歌に限らず文芸は皆、本来共有できないはずのものをなんとか共有しようとする営みという側面を持っているように思う。この歌は、そんな誰かに伝えたい!という気持ちで雪を手に取ったけれど、結局それは叶わなかったということがありありと伝わってくる。

山のまの雪は消ざるをみなぎらふ

 川のそひには萌えにけるかも
  (万葉集/巻十/柳を詠む/1849)

 山と山の間の雪はとけずに残っているのに、並々と水量を湛えた川の側には柳が芽吹いているなぁ、という歌。
 まだ冬の気配も残っているけど、春は来たのだ、という流れはいろんな歌で見るけれど、この歌は視線というかモチーフの誘導が非常に流麗だった。遠くの山の間にはまだ雪が消えずに残っているのに(どこかで雪はとけ始めているのだろうか、)水量豊かな川のほとりに、柳の芽が顔を出している。山、雪、川、柳の芽まで、多くのモチーフが読み込まれているのにとてもなめらかに読まされてしまうのがなんか悔しい。雪がとけると川の水が増える、ひいては春が来ているという論理を内に含みながら、でもまだ山あいの雪はとけてないという塩梅が、冬と春の境目を表現しながら歌の中に起伏を作っていて、いや、良い歌ですねほんとに。
 冒頭の、雪を見せたかったけれどとけてしまった歌を思い返すと、あの歌はもちろん伝えられないことを歌った歌であると同時に、伝えたかったことを伝えた歌でもあった。そのほんのりとした意思疎通に、山あいの雪は残っているけれど春は来た、という迂遠で丁寧にモチーフを連ねた歌を重ねてしまった。
 万葉集の巻十は大概読み人知らずの歌で、だから誰なのかはわからないけれど、冒頭歌を贈られるような二人の関係が、良い形で長く続いていたらいいなと思う。