わたいりカウンター

わたいしの時もある

「らむ」ってどういう意味?

我が背子が見らむ佐保道(さほぢ)の青柳を

 手折りてだにも見むよしもがも

  (万葉集/巻八/1432/春の雑歌/大伴坂上郎女)

 高校生の頃の体育祭は、川を越えた先の運動場で開催されていた。運動が得意な方ではなかったからか、三年間の勝っただの負けただのは全く覚えていない。ただ、帰り道に橋を渡っているとき友達のF君が「この帽子親に借りてきたやつなんだよね〜」と言って、キャップを持って頭から少し浮かせた瞬間に強い風が吹いて、伸びやかな弧を描いてその帽子が川面へ落ちて行った時のことだけは未だに忘れられない。その時は他の友達と一緒に爆笑していた。

 冒頭の歌は、私の大事な人が見ているだろう佐保へ向かう途中の道の青柳を、その枝を手で折る様子までも、見る方法があったらいいのに、という歌。
 「らむ」は現在推量の助動詞で、私なりに説明するなら、今目の前で起こっていないことに想いを馳せる推量を表している……この説明でも間違っては無いのけれど、小学館の日本古典文学全集のこの歌の頭注の方がよっぽど的確で、“ラムは遠く離れている所のことを推量する助動詞”と、こう書かれている。それでようやく「らむ」のことが少しわかった気がした。この歌の“遠く離れている”ところはどこになるだろう。
 ひとつは物理的な遠さ。佐保は当時の都である奈良の東に位置している。*1実際にはそこにいないのに、詠者は佐保の青柳のことを想っている。
 もうひとつは視点の遠さではないか。実際には体験し得ない目の前にいない他者の視点は、想像することさえ難しいという点で、心理的に詠者から遠い場所にあると言えそうである。
 あの景色をあなたにも見せたかった、というのは和歌でもみられる普遍的な感情に思うけれど、今目の前にいない人の見ている景色を見たいとひとり思うのは近いようでかなり異質だし、今それを相手に伝えられないのに思ってしまうところに切実さがある思う。
 彼女は見たいと願った。自らの大事な人の行く佐保への道の、春先の青々としてきた柳を、それに伸ばされる手を、枝が折られる瞬間を、手繰り寄せられて視界を占める青柳を。
 友達が言ったそばから帽子を川に落とすものだからあの時は笑ってしまったけれど、この歌の「らむ」のことを考えているうちに、大事な帽子が手から離れて届かない場所へ飛んでいってしまうのを見送るのは辛かっただろうなと切なくなった。
 その時すでに「らむ」のことは習っていたはずである。

 

 

*1:一説では春風は東から吹くことから、都の東に位置する佐保にあやかって、佐保姫は春の女神と言われる。