谷風にならずといかが思ふらん
心ははやくすみにしものを
(後拾遺/雑三/1036/藤原公任)
学生時代、受験勉強を私なりにしてきたつもりだったけれど、第一志望には受からなかった。浪人するほどの執念もなくて、これ以上親に迷惑もかけられないと思って、たまたま受かった学校に入学した。
その学校での勉強も楽しかったけれど、どこか他人事のように自分の学生生活を過ごしてしまったような気がする。自分の欲に蓋をしなければならない、というよりむしろ自分は欲してはいけないという気持ちで生きていた時間は結構もったいなかったなと思う。
上っ面は受験に失敗したことを歯牙にもかけないふりをして、内心、やりきれなかった自分への悔しさが陽炎のように立っては、生きるべき今を歪ませてしまっていた。
冒頭歌は、谷風になれないなんてどうしてそう思うのでしょう、心は簡単に澄んでいくじゃないですか、という意味。
詞書きを見ると藤原公任が出家してすぐの頃に、「まだすみなれじかし」まだ住み慣れないですか?と聞かれた時に「すみ」に掛けて応えた歌のようだ。
出家する中で求められる執着のない玲瓏な心持ちを、日の当たることのすくない谷間に吹く涼しい風に例えるところに公任の着眼点の素晴らしさがめっちゃ出ている。
心が澄むということを谷風に例えるところに、公任の当代きっての風流人としての和歌のうまさと、まだまだ心を動かしてよい和歌を詠めてしまうくらいには執着を捨てられてないことが現れている。谷風のように心が澄んでいる、出家がうまくいっているよという自慢のように見えて、良い和歌を詠めてしまうくらいにはまだまだうまくいっていない謙遜にも結果的になっているのが面白い歌だ。
この歌の理屈をほどいていくうちに、ふっと出て来た謙遜に、受験勉強の思い出の周りでふつふつと発せられていた熱が少し引いていくような気がした。