わたいりカウンター

わたいしの時もある

されたくない勘違い

庭の雪に我が跡つけて出でつるを

 とはれにけりと人やみるらん

  (新古今/冬/679/慈円)

 自分で書いている文章を、自分で読み返したりする。あの霧の歌について書いていた気がするけど、そのときどんなふうに書いていたか気になったり、私的なことと歌のことが良い塩梅で書けた回なんかも、そのバランスの取り方を確認するために読み返したりする。
 そうしているうちにふと、自分で閲覧する分にもアクセス数が稼げてしまうのだろうか、と不安になった。公正にアクセス数をカウントしてもらいたい、というよりも自分のブログのアクセス数を自分で水増ししているみみっちいやつだと思われる余地を作ってしまいそうでいやだったのだ。
 実際にはカウントされなかった。よかった。

 冒頭歌は、庭の雪に自分で跡をつけて外出したのを、(誰かに)訪ねられたのかと、他の人に見られるだろうか、という意味。
 庭に雪が降るのは、訪れる人がいなくなることとセットで扱われがちだ。
 その人気のない庭に、自分の足跡があると誰かが訪れたのかと思われそう、という歌。この、意図しないかたちで他者に期待を与えてしまう居心地の悪さが良く現れている歌なのではないかと思う。「あら~慈円さん、こんな雪の日にまで訪ねてくれる方がいらっしゃるなんて素敵ね~」みたいなことを言われてびっくり自分の足跡なんてことがあったら、私だったら変な汗かきながら不気味な愛想笑いをしてごまかすほかない。
 それでもこの歌が白い雪のような清新さを兼ね備えて勅撰集にも選ばれるのは、実際には訪ねてくる人がいたのかな?と勘違いする人すら周りにいないからではないか。
 気まずさを先に表現することで、人気のない状態を悔やむというよりむしろラッキーなこととして描ける論理構造は、日常に潜む気まずさを見逃さない感受性と同じくらいこの歌をすてきなものにしている。