初鴈のはつかに聞きし言づても
雲ぢに絶えて侘ぶるころ哉
(新古今/恋五/1417/源高明)
たまに会う人もいるが、高校時代の友人の中にはまったく音信不通という人もいる。
卒業後しばらくは、ふとしたことでその友人のことを思い出しては「こんなことあったよ」と連絡した。半年に一度くらいだろうか。
しかしそれらが読まれた気配はまるでなかった。そのうちにアカウントが消えてしまって、投げかけた言葉は宙ぶらりんのまま履歴に残っている。
最近時間の使われ方が大きく変わって、いままで好きでやっていたことの中にも出来なくなったことがある。
あまり勉強する時間が取れないし、終わりの見えない対人ゲームを一人で黙々とプレイするのにも限界を感じてしまった。
冒頭歌は、わずかにあったやりとりもなくなって、それが気になってしまう最近であるなぁという意味。
気になってしまう、というのはどうしてか。もう二度と関わることがないかも知れないということが気になるのだろうか。そんな気持ちを突き詰めていくと「機会が失われること」がつらいような気がする。
何もかもを諦めないことは、何もかもに失礼なことは知っている。けれど、趣味も人間関係も手が届かなくなってから、それらが失われていない日常をうっすらと思い浮かべては喪失感を確かめてしまう。
もしこうだったらこうだったんじゃないか。もっと勉強できていたら、あの人とまだ気楽にしゃべれていたら。漠然とした不安と同じくらい、漠然とした希望もたちが悪い。
でも冒頭歌はそんな鈍重な感情を、「初鴈のはつかに聞きし」や「雲ぢ」という言葉で遠景を想起させることで、遠くに置いてその重さを緩和している。喪失感を過度に確かめたり、誰かを責めるというよりも、統一感のある小道具を伴うことで淡々と感情を受け止めているようなニュアンスが出せるのは、歌という形式の良いところかもしれない。