久しくまうでこざりける人に送り侍りける
水の面に生ふるさ月のうき草の
うき事あれや ねを絶えて来ぬ
躬恒(古今/雑下/976)
人に何かを尋ねるときは細心の注意が必要だ。
私がそれを学んだのはコンビニのレジ打ちの時だった。
マイバックを持っている人にはビニール袋をつけない方が良いし、マイ箸を持っている人には割り箸をつけない方が良いし、スパゲッティを当然箸で食べるという人にはフォークじゃなくて箸をつけないといけない。
で、こういうその人にとっての普通ってかなり聞きづらい。家ではパスタを食べるのは箸の方が多い私は「でも普通はフォークですもんね、へへ」と照れ笑いの表情をマスクに隠してフォークをつけていて、なんとも言えない切なさがあった。自分で信仰していない宗教を布教するとき、人はこんな感情になるのだろうか。
……もちろんコンビニ店員がパスタを何で食べるかというのは、業務に影響を与えるべきではない。そんな事情もあってアルバイトの最後の方は黙ってフォークを入れるだけの人になっていた*1。
さて、接点がコンビニのレジだけならこういう消極的なコミュニケーションで済むけれど、知り合いが急に音信不通になったらやっぱり何かしら声を掛けようという気になるのではないか。しかし、そういうときの距離感の取り方はむずかしい。
そんな問題のひとつの回答に、冒頭歌はなれるだろうか。
訳してみると、上の句「水の面に生ふるさ月のうき草の」は水面に生えている五月の浮き草ではないが、下の句「うき事あれや ねを絶えて来ぬ」つらいことでもあった? 浮き草の根がないではないが、音信不通で顔見せないね、という感じか*2。
「うき」を「浮き」と「憂き」に掛けて、根無し草の「ね」を音信の「音(ね)」がない、と掛けているあたりモチーフを余すことなく膨らませ利用している。
最初にこの歌を読んだときは、「人を気遣うときによりにもよってダジャレか?何してやったみたいな顔してるの?」と思った。……けれど、しばらくするとそう思わせることこそが気遣いなのでは?と考えが変わってきた。
誘い文句に断わりやすい理由を付けるという気遣いがあるように、突っぱねやすい隙のような効果がこの掛詞にはあるのでは無いか。
ここからは完全に現代置換妄想になるのだが、普段は寒いダジャレばかり言っている上司「躬恒」に辟易して居た新人。ある日ミスをして凹んでいる新人を、躬恒が普段よりもう一ひねりした洒落を片手に軽く慰めてくれた。新人はうっかり泣きそうになってしまう。
それ以来、躬恒のダジャレには新人のツッコミが入るようになった。字面ではにべもないが、声音の節々にどこか暖かみのあるツッコミが……。
というのは考えすぎにしても、ひと目ダジャレ、ふた目気遣いのこの歌はなかなか侮れない気がする。