鶯の花の木にてなくをよめる
しるしなきねをもなく哉鶯の
ことしのみちる 花ならなくに
みつね(古今/春下/110)
今日は梅雨明けになるかも知れないらしい。気象庁がやっぱり違ったと言わなければ。
制度上の判定はさておき、気持ち的には既に夏である。湿った空気にうだる熱。昼間にはこめかみに軽い痛みを覚え、慌てて水を飲んだ。雨の日の涼しさが惜しまれる。
過ぎゆく季節を惜しむ気持ちと、どう折り合いをつけるか。冒頭歌はその方法を教えてくれるだろうか。
訳してみるなら「しるしなきねをもなく哉(かな)鶯(うぐいす)の」甲斐もなく鳴き声を響かせているなあ鶯が「ことしのみちる 花ならなくに」今年だけ散る 花って訳じゃないのに、というような感じか*1。
ひと目なんともイジワルな歌に見える。去年も来年も同じように花が散って同じように鳴くのか?というようなニュアンスを感じた。詠嘆の哉が軽蔑のため息を伴っているような気さえした。
しかし、季節を愛で惜しむのは和歌の常である。
そして、動物の鳴き声に感情を仮託するのも和歌の十八番。
確かに、鶯に花は毎年咲くという理屈を理解してもらうのは酷である。でも人間なら、そのことは解っているはずだ。
とすると、鶯の鳴き声を聞いて、「しるしなき」甲斐がないのにと嘲笑するのではなく、来年もまた花が咲くことが解っているのに、それでも散る花を惜しんでしまう鶯と人間の、理屈ではない感情を迂遠に描いている歌かもしれない。
Q. 春が終わって花が散ってしまうのが寂しいです。この心をどうしたら良いでしょうか。
と言う問いがあったなら、
A. また来年咲くって解っていてもどうしようもないです。私も寂しいです。
というアンサーをこの歌はしているのだと思う。
解決にはなってはいないけれど、ちょっと元気はもらえた気がした。