夏月歌よみけるに
山川の岩に塞かれて散る浪を
霰と見する 夏の夜の月
(山家集/上夏/246)
最近冷奴をよく食べる。食べるのだが、豆腐がどうやって作られるのかよく知らない。
今夜は冷奴の小鉢にキュウリとトマトを入れて食べていた。白に加えて緑に赤にと彩りがよかろうという気持ち1割、洗い物増やしたくないという気持ち9割で。
すると、醤油のかけてない真っ白い冷奴から、スイカの皮の近くの白いところみたいな味がする。
そういえば豆腐はにがりを使って作ると聞く。にがり色とスイカの白っぽいところの色は似ているなあ、もしかしてにがりの原料はスイカの白い部分……とふわふわした脈絡のない思考をしていた。
昼ご飯を自分の怠惰で食いっぱぐれて、朝ご飯から何も食べていない。ぼんやりとした頭で小鉢を眺めているうちに、はっと気づいた。これは、恥ずかしい。
何のことはない、スイカの白い部分みたいな味は、同じ小鉢に入れたキュウリから染み出た味だった。自分で入れた野菜のことさえおぼつかないとは。
冒頭歌は夏の月のうた。「塞(せ)かれて」の読みがちょっとむずかしいくらいで、語彙も起きていることも普通の歌ではある。
訳すなら「山川の岩に塞かれて散る浪を」山あいの川にある岩で流れを塞がれてしぶき散らす浪が「霰と見する 夏の夜の月」霰みたいに(ひんやりして)見える 夏の夜の月のせいで、という感じか*1。
この歌はあたりまえに冷たい物の中に、冷たいのは印象でしかないものが混ざっていて、その印象によってロジックを飛躍させて飛沫を凍らせるというのは荒技がすぎる……はずなのだけれどするっと読めてしまうから不思議だ。
夏でも夜はひんやりしているもの。暖かい冷たいというのは相対的なもので、日が落ちた夜は気温が下がりがちだ。
「塞かれて散る浪」もとい水しぶきも冷たい印象がある。気化熱のせいなのか、山中の川の水が冷たいからなのか、これという理由を指摘することは出来ないのだけど、温かいか冷たいかで言えば冷たいイメージがあるものではないか*2。
ただ、「夜」も「散る浪」も冷たいけれど「月」は別に冷たくないはずなのだ。
けれど、その月の明るい光が水しぶきを照らすことによって、霰みたいに見えるというのは普通じゃない。
月の白さから冷たさを連想するのは、昔からある手法ではある。
しかし、その「散る浪」水しぶきが霰の粒みたいに見えるのは、岩にあたって細かく散り飛ぶ水滴が岩や川面に落ちるまでの一瞬のことである。
その水しぶきが月に照らされる一瞬を、ハイスピードカメラで撮った風のスローモーション映像みたいに、平易な言葉だけの57577で切り取ってくる西行はやっぱり歌が上手い人だ。
冷奴も物質的に冷えてるというのもあるけれど、その白さが涼やかであるというのもうれしい。
そしてたまに、自分がぼーっとしてることも教えてくれる。