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月明かりのつめたさ

  題知らず

冬の池の上は氷にとぢられて

 いかでか月の 底に入るらん

よみ人知らず(拾遺/冬/241)

 暑い日が続きますね。今日は歌だけでも冬のものを紹介したいと思います。
 訳すなら「冬の池の上は氷にとぢられて」冬の池の表面は氷で閉ざされているのに「いかでか月の 底に入るらん」どうして月が 底に沈んでいるのだろう、という感じでしょうか*1
 最初にこの歌を読んだときの印象は「手に入らないものへの見当違いのアプローチ」でした。美しい月の姿を追って池の底を目指そうものなら、氷を割った時点で月の姿は氷面から消えてしまうでしょうから。
 しかし、違いますね。当然作者はわかって詠んでいる。池の底に月なんて無いことは。
 ではどうしてそう詠んだのか、ふたつ理由を思いつきました。
 ひとつは、池の上に張った氷があんまり綺麗だったから。氷面の透明度が高く凹凸が少なく、月が見事に反射していたことを伝えたかったのではないでしょうか。
 もうひとつは、水が凍った理由を月に求めたから。
 昨日水しぶきが月光に照らされる様子を霰のようだと詠んだ西行の歌を紹介しました。あれも月の光のつめたいイメージを前提としている訳です。それと同様に冬の月明かりもつめたさの象徴だったのでしょう。
 しかし、それでも月の光が水を凍らせるのはちょっと考えづらい。もしそうなら月光にあたった顔は凍ってしまうことになる。そうではないことを、むかしの人も事実としてわかっていたでしょう。
 でも、つめたい光を出す月が池の底に沈んでいたなら? 火で熱した石を風呂を沸かすのに使ったみたいに、池の水は凍るかもしれない、とは考えるかも知れません。
 いずれにしても、月光がつめたいイメージ*2を持たれていることは間違いなさそうです。

 
 

*1:参考:「拾遺和歌集新日本古典文学大系岩波書店

*2:月光のつめたいイメージについてふと思ったのですが、夏はともかく冬は晴れている方が寒いと言いますね。放射冷却というやつです。温度計のなかった平安時代ですが、冬は月明かりの出る晩の方が寒いという肌感覚が、知らず知らず和歌に言語化されていたとしたらちょっとおもしろいですね。