題知らず
底清み流るゝ河のさやかにも
はらうふることを 神は聞か南
よみ人知らず(拾遺/夏/133)
今日は6月末日。旧暦のこの日は夏最終日*1ということで、夏越の祓え*2が行われていました。それにちなんだ歌を持ってきたので、ちょっと聞いていってくださいな。
訳すなら「底清み流るゝ河のさやかにも」底が濁りなく清らかなので、流れる川も曇りなくはっきりしているように、「はらふることを 神は聞か南」夏越の祓えをしてるってこと 神様もはっきり聞いてほしい、という感じでしょうか*3。
この歌の意味の核は、やっぱり「神様への目配せ」でしょう。祓えをちゃんとやったんだから、霊験あらたかであってくれ~という。祭礼に関わる歌はここが焦点になりがちで、意味としてはシンプルなことが多い気がします。
ですが、この歌は「さやか」のおかげで、歌意と技巧が絡み合ったおもしろい歌になっています。
というのも「さやか」の意味の微妙なコントラストが歌の意図「神様への目配せ」にとても適っていると思うのです
「底清み流るゝ河の」は「さやか」を導くための序詞(簡単に言うと前振り)になっているんですが、上の句と下の句で「さやか」の意味が絶妙に違っています。
私もさっき調べたのですが「さやか」の意味は3種類あるそうです。
【さや-か】*4
①(目に見た感じが)はっきりしている。曇りがない。
②(耳で聞いた感じが)高く澄み切っている。
③光線がじゅうぶんで明るい。
①目で見た時の曇りのない様、これは「底清み」から川の透き通った様子にぴったりです。上2句「底清み流るゝ河の」にかかる「さやか」は①の視覚的な意味でしょう。
でも、下の句「神は聞か南」神に聞いてほしいと「聞か」と詠んでいるなら、ビジュアルイメージの①の意味ではなく、聴覚情報を修飾する②の意味でしょう。
このふたつの意味の微妙な隔たりを「さやか」が一語で両立している。言い換えれば、上2句と下2句、微妙に違う歌の上下を「さやか」が橋渡ししている訳なんですね。
その歌の構造上の結節点としての「さやか」は、意味としては人間界の儀式を神様に届ける理由(はっきりしているから)になっているのがとても鮮やかでおもしろいものを観た気にさせてくれます。