わたいりカウンター

わたいしの時もある

雑草が伸びるまで

おほあらきのもりのしたくさおいぬれば

 こまもすさめずかるひともなき

(古今/雑上/892)

 訳すなら「おほあらきのもりのしたくさおいぬれば」大荒木神社の雑草が生えてしまっているから「こまもすさめずかるひともなき」馬も食べなきゃ刈ってくれる人もいないのだなあ、という感じでしょうか*1

 ひと目さびしい歌です。神社の生き物の気配のなさ、ただ植物が繁茂している様子を馬と人を引き合いに出して描写しています。
 でも、この歌の詠者は近くにいるわけですよね。そう思うなら草刈りくらいしたらいいのではないかと思ってしまいました。
 そこで気づくのは、詠者はこの情景を描写していく中で何に感情移入しているのかということです。何だか古文の問題みたいになってきました。恐らく詠者の関心は下草、ではなく勿論「おほあらきのもり」でしょう。
 「したくさおいぬれば」下草が生えているから寂しげなのでしょうか。たぶん厳密には違うのですね。下草が生えてしまうまで馬も人も寄り付かなかった。そのさびしい時間に詠者は想いを馳せてしまった。
 この後下草を刈ったかどうか。それはさして大きな問題ではないのだと思えてきました。ただ「おほあらきのもり」の誰も寄り付かなかった時間に対して詠者が気づいて寄り添っている。
 たださびしい歌というわけでもなかったみたいです。