年ごとに春はくれども池水に
生ふるぬなはは絶えずぞ有りける
順(拾遺/雑春/1058)
聞き慣れない「ぬなは」っていうのは蓴菜のことらしいです。スイレン目に類する水草の一種でぬるっとした若芽は食用でもあるそう。
歌を訳すなら「年ごとに春はくれども池水に」毎年、春(という季節)は来て(そして去っていく)物だけれど、池の水に「生ふるぬなはは絶えずぞ有りける」生えている蓴菜の葉は(水面に)ずっと茂ってるよね、という感じでしょうか*1。
とにかく「ぬなは」の異物感がすごい。水蓮みたいに丸い葉を水面に浮かべる水草で、ヌメヌメしていて食べられる。そして「絶えず有りける」ずっとあるらしい。怖い。怖すぎる。見知らぬエイリアンがずっと生きているって聞かされたような怖さがある。
怖がっているうちに、歌の趣旨は移りゆくものとしての「春(季節)」と、変わらないものとしての「ぬなは(蓴菜)」の対比だと思えてきました。
変わらないものがあるから、日々移ろうものが際立つ。そうは思いつつもその逆も正しい。論理が循環していて、焦点の定まらない気持ち悪さがこの歌にはある気がします。
さらに「ぬなは」の異物感はそのまま、対比として際立つ「変わらないもの」という概念への異物感でもあるでしょう。人間もまた季節と同じ移ろうものです。
毎日和歌を紹介しているうちに、好きだから紹介しているのか、紹介しているから好きなのかわからなくなる時があります。今回は紹介しているうちに「ぬなは」の異物感が凄まじすぎて怖さが面白さに変わってきました。
「ぬなは」や長命な何かからしてみれば、季節や人間が移ろってしまうことに違和感を覚えたり、面白がったりするのが普通なんでしょうか。