寛平御時きさいの宮の哥合のうた
吹く風と谷の水としなかりせば
み山がくれの 花を見ましや
(古今/春下/118)
この歌の底抜けなポジティブさのことを考えていたら、自分に足りないタイプの社交性の気配が感じられてよかったので紹介させてください。
訳すなら「吹く風と谷の水としなかりせば」吹く風と谷の(流れる)水がなかったなら「み山がくれの 花を見ましや」深山に隠れた花を見ることができるだろうか? いやできない。(深山の花が見られるのは、吹く風と流れる川のおかげだわ、ありがとう〜)、という感じでしょうか*1。
詞書にある「寛平御時きさいの宮の哥合(うたあわせ)」とは簡単に説明するなら紅白歌合戦の和歌バージョンのようなもので、その時々でみんなで歌を持ち寄ったり、同じテーマで歌を読んだりする催しのこと。歌合というイベントとしては、記述が残ってるものの中ではかなり古いものです。つまり、当時としては新しいイベントだったんですね。
始まったばかりのことは新鮮で、そのものの楽しさとは別に、新しいだけで楽しいみたいなところがありませんか。当初はそういうわくわく由来の高揚感から、山風と谷川に感謝☆みたいなポジティブな歌*2が生まれてきたのだと思っていました。けれど、歌合のことを考えるうちにそれだけではないかもしれないと思えてきました。
歌合は、学校生活のような強制力のある集合ではなく、歌詠みの自由意志による同好の士の集いという側面が強かったのだと思います。新しさに加えて、同じ趣味の人が集まっている。とすれば、この機会をありがたいと思い主催者や参加者に謝辞を述べるのもおかしなことではないでしょう。
山風と谷川に感謝☆という歌の根底にあるのは、巡り合わせによって景物を楽しめるうれしさです。それを歌合参加者の心情に重ねて「こうして同好の士と顔を合わせ歌を詠むことができるこの巡り合わせも嬉しく思います」という挨拶のような含意を拾うのは考え過ぎでしょうか。