わたいりカウンター

わたいしの時もある

知らない人の気配に

  堀河院御時百首歌たてまつりける時に、山家の心をよめる

山里の柴おりおりに立つけぶり

 人まれなりと空に知るかな

二条太皇太后宮肥後(千載/雑中/1092)

 詞書にある「山家」というのは文字通り山にある家のこと。
 「柴折り」というのは、峠や村境にある祭壇のようなもので、そこにとってきた柴を備えて旅の無事を祈ったらしい。その「柴折り」から「折々」を導いて、時々しか見えない煙に、ひと気のなさを空から気付かされるという歌。
 作者の二条太皇太后宮肥後は晩年、白河天皇皇女令子内親王に仕えた女流歌人で、大都会で宮廷に出仕している人物が山中の家の心を読むのは、ともすると田舎ディスを疑ってしまう。
 邪推はさておき、すてきなところも目につく。「山里の柴折り」は「折々」を導く序詞だけれど、その設られた場所から人気のなさの演出に一役買っている。
 けれど時々しか人の気配を感じられない、ということは全く人がいない訳ではないということでもある。それが煙からわかる。
 「柴折り」というのは、神様に加護を祈るための儀式であり供える柴はその目印である。歌の中で煙が空に上がって人の気配を伝えたように、神様にも加護を祈った旅人が、その柴が見つかるといいなと思った。
 「柴折り」という言葉を選んだことが、歌の表層では折々を導きつつ、歌の意味的な部分で目印が見つかる心強さや、遠い他者の無事を祈る心などを支えていて田舎ディスとかでは全然なかった。