京極關白前太政大臣高陽院歌合に
御狩野はかつふる雪にうづもれて
とだちもみえず草隠れつつ
前中納言匡房(新古今/冬/687)
「とだちも」の意味がわからなかったのですが、よくみると前の歌に「鳥立(とだち)」とありました。御狩野の歌ですし「(狩りで狙っている)鳥が飛び立つこと」と見て良さそうです*1。
訳すなら「御狩野はかつふる雪にうづもれて」狩りをする野原は次々降る雪に埋もれてしまって「とだちもみえず草隠れつつ」鳥は飛び立つのもみえなくて今も草に隠れてしまっている、という感じでしょうか。
個人的に和歌の典型は景色×感情だと思っているのですが、この歌はそれにもう一つの要素を加えています。
それは風景を捉える視線に、鳥が飛び立つのを見逃すまいとする明確な「目的」です。「とだちもみえず」から、ピッチャーの投球に備え構えるバッターのような緊張感が詠者から読み手にも伝わってきます。
鳥が草に隠れて出てこない。一面雪景色の野原の静けさに、鳥の気配を探る狩人が立っている*2。これはオタク特有の早口になってしまうんですが、末句「隠れつつ」の「つつ」がいい味出してるんですよね。ラジオを聴きつつ料理をするの「つつ」で同時進行の意味を付け、今も雪に覆われた草の陰で鳥が隠れている、という詠者(狩人)の認識を示し、それが飛び立っても見逃さないために目線を外せない(景色を凝視する)理由にもなるという。「つつ」二文字の情報圧縮力が、和歌の奥行きをこれでもかと描き込んでいます。
舞台を「御狩野」として狩りという目的も示して、一面の雪景色でビジュアル面の需要を満たし、その景色に今も鳥が隠れていると「隠れつつ」で示して緊張感まで共有する。要素マシマシの新古今のいいところが出ている歌かもしれません。
ふと、私が和歌について書く目的についても考えてしまいました。
和歌を解釈していくのは、化石みたいに古い冷凍食品を解凍する作業だと思っています*3。その過程で解釈する人が使いがちな味が復元されてしまったり(感情の解釈に偏りが発生したり)、詠者からしたらそんなに味がしないところを「無限に味がする! おいしい!」って言っている(見当違いの語彙や感情を深掘りしている)可能性は十分にあるでしょう。
でもそこが受け手の人柄や生きている社会が出て面白いところだし「でも私にはこんな歌に見えるのですが」と歌の他の人にとっての一面が聞けたらうれしいので、まずは自分で書いているのだと思います。
自分で読みたいものを書けたり書けなかったりですが、これからもどうぞよしなに。