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わたいしの時もある

天気雨に降られた歌

柴の戸に入日(いりひ)の影はさしながら

 いかに時雨(しぐ)るる山べなるらん

清輔朝臣(新古今/冬/578)

 

 夕暮れの天気雨を、山辺の庵で見たという歌。
 詠者が、どこでこの歌を詠んだのかがわからなくて考えていました。
 
 さて、家の中だと仮定するとおかしいことに気がつきます。
 当時は蝶番などなかったはずですから、自然と柴の戸というのは引き戸であるはずです。
 家の中から見て、戸に光が当たっている、「入日」もとい夕日がさしていると詠んでいるとするのはかなり不自然です。光源である夕日が家の中から戸を照らすはずがない。
 さらに、戸を眺めながら同時に山辺に時雨が降っているとわかるのも結構不自然な気がします。
 すると、詠者が山辺にある庵の戸が夕日に照らされてるのに、家に着く前に時雨が降り始めてしまった悲しさを詠んだ歌と考えるのが自然な気がしました。
 
 シチュエーションはなんとなくわかりました。では、この時の詠者はどんな感情を歌に込めたのでしょう。もう少しで家に入れたのに時雨に降られてしまう悲しさでしょうか。それとも、不運な自分を自虐的に描写したかった? 
 天気雨の山辺の夕暮れはきれいだろうなと思います。戸に差した夕日は時雨の雨粒の影が絶え間なくよぎってめずらしかったかも。
 けれど、ここで「柴の戸に入日」の部分が頭をよぎりました。
 私の結論はこうです。
 意訳を試みるなら、
 山辺の庵に向かってたら直前で天気雨に降られちゃったんだけど、俺より先に庵の戸に着いたのは夕日だったよ。