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わたいしの時もある

波をかぶったような

伏越ゆ行かましものをまもらふに
 うち濡らさえぬ波数まずして
 (万葉/巻七/譬喩歌/1387)

 訳してみても結構意味がわからないのだけれど、だからかついつい気になってしまった歌。訳は「伏越ゆ行かましものをまもらふに」伏越から 行けばよかったのに 様子をうかがって「うち濡らさえぬ波数(よ)まずして」濡らされてしまった 波の間合いを計らなくて*1
 譬喩の歌として採られている歌なので、周りの歌を見ても恋の歌であろうとは思う。けれど、これが恋がはじまった歌なのか、恋を失った歌なのか、断言できるだけの手がかりがない。
 伏越という地名のようなものも、他に例がなく現代ではニュアンスがわからなくなってしまっている。ただ「ゆ」と「〜を通って」の意味の助詞がついているので地名ではあると思う。
 やっぱり鍵は「行かましものを」行けばよかったのに、の部分だろうか。多分「伏越」を通っていたら濡らされることはなかったのだ。濡れるか濡れないかの分かれ道で「まもらふ」見守ってしまったから、波との間合いを計れずに濡れてしまった、そういう歌と考えてみたい。
 「付越」を通っていれば濡れなかった、つまり避けることのできた未来も詠者は理性ではわかっていた。それでも見つめてしまって、波をかぶることになってしまった。
 失恋の歌と考えると「まもらふ」ただ見ていたから起こる失恋……は誰かに先を越されるとかだろうか。波に濡れたことを、失恋の衝撃とと考えるのは少し無理があるか。
 どちらかというと、よせばいいのにうっかり見惚れてしまって、何かきっかけがあって恋がはじまってしまった歌のような気がする。あなたならこの歌をどう読みますか?

*1:訳の引用:「萬葉集 2」日本古典文学全集