言繁み君は来まさずほととぎす
汝だに来鳴け 朝戸開かむ
(万葉/巻八/夏の相聞/1499)
末句「朝戸開かむ」の爽やかさが目に止まったのですが、読んでいくうちに「朝戸」開けちゃダメなのでは?と心配になりました。というか、爽やかどころの話じゃないみたいです。
誰が歌ったかはわかるけど、誰が作ったかはわからない歌です。詞書に「大伴四縄の宴吟の歌一首」とありますが、宴席でみんなの前で歌った歌という点や、四縄がのちに「雅楽助」という歌を読む役職になる人というのもあり、四縄自身の歌ではなくみんなが知っている古歌とか民謡だと解釈されているみたいです。「君は来まさじ」と恋人が来ないことを嘆いているところからも、詠者は四縄でもなく、男性でもない可能性が高そう。
歌を訳すなら「言繁み君は来まさずほととぎす」噂が広まったからか貴方はいらっしゃらない。ほととぎすよ「汝だに来鳴け 朝戸開かむ」お前くらいは来て鳴いてくれ。そうしたら朝戸を開くよ、という感じでしょうか*1。
5757までは分かるけれど、最後の「朝戸開かむ」が最初はいまいちわかりませんでした。
旺文社文庫の方の脚注に「男を待つ女の歌であったもの。朝戸開カムは我が君を送り出す気持ちをこめた表現であろう。」とあって、それでようやく色々腑に落ちました。恥ずかしながらふたつびっくりしました。
ひとつは、貴方が来ないのを朝まで待っていたことが暗に描かれていたこと。この間夜更かしについて少し書いたけれど、待ちぼうけて朝になってしまうのはなかなかつらいものがあります。
もうひとつは、「朝戸開けむ」が暗に悲しさを描いていたこと。もし男が来ていたら、朝送り出すときに開けたはずなのに、来ないから送り出せなくて開ける理由がない。そこで、ほととぎすが来てくれたら、朝戸を開ける理由になるから来て欲しいと歌っていたんですね。ここで暗に描かれているのは、ほととぎすさえ来ないのなら、私はもう朝を受け入れたくない、このまま暗闇の中でうずくまっていたい、そのくらい悲しいということではないでしょうか。
ここからは完全に私の想像です。朝戸が閉じていた時にほととぎすが来たなら、鳴き声で気づいて戸を開けるでしょう。その時、ほととぎすはびっくりして飛び立ってしまうかもしれません。それを見て、誰かを見送りたい欲が少しは満たされるかもしれませんが、満たされた分だけ、相手との関係が終わりに近づいていってしまうような気もするのです。