くる人もなき奥山の滝の糸は
水のわくにぞまかせたりける
中納言定頼(後拾遺/雑四/1055)
隣の部屋から咳をする音が聞こえる。しばらく外出してはいけない、ということになってしまった。そのせいか、今日一日ふわふわしてやることが手に付かなかった。
歌は、人のこない奥山の滝の流れは、ただ水が沸いてるってだけなのだなあ、という歌*1。
「くる」が「(人が)来る」と「(糸を)繰る」、「わく」が「(水が)湧く」と「枠(糸を巻き取るための木枠のこと)」で掛詞になっている。人が見ていないところでも淡々と水が沸き*2、思わず眺めてしまうような滝が存在し続けている不思議さ。「繰る」を縁語にして登場する「滝の糸」という自然と人工物の対比が、「水の湧く(枠)」と続く掛詞ひとことで表されているところに、この歌の愉快さと、詠者の執念を感じる。この滝の眺めがこんなにも心を動かすのに、誰が整えたわけでもなく、誰が見ようが見るまいが関係なく、ずっと自然に存在し続けていたことに対する驚きを、絶対に表現するという執念を。
そしてその執念を考えるよりも先に、私も「この滝すげぇな」と思ってしまった。誰に見られるでもなく、家で自分のなすべきことをせよ、持ち場に戻れと言われているような気がした。身近な人が流行り病で伏している不安はしょうがないにせよ、それをやるべきことが手に付かないこととごっちゃにしてしまうのは甘えだった。