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わたいしの時もある

鶴に心をみる

  松が崎
千とせふる松が崎には群れゐつつ
 鶴さへあそぶ心あるらし
清原元輔(拾遺/神楽歌*1/607)

 昨日、春の花を一緒に楽しんでくれない雁の歌のことを考えていたからか、この歌が目にとまりました。
 例えば花札で描かれるように、鶴と松がめでたいものだとさえ知っていれば、あまり解説はいらない歌かなと思います。「さへ」で、詠者の「あそぶ心」も前提として忍ばせてあるのがおしゃれだな〜って思っちゃいました。鶴が遊んでる風景を眺めてみると、のどかで落ち着く心地がしますね。
 あとは「あそぶ」に意味の重なりを見てもいいかもしれません。
 「あそぶ」には「遊ぶ」「自由に動き回る」の他に「詩歌や楽器を歌う、演奏する、楽しむ」みたいな意味もあります。拾遺和歌集の「神楽歌」の部立てには神事や祭礼、神社参拝に際して詠まれた歌が集められていますから、朝廷の神事、儀式に際して、雅楽が「あそ」ばれることは想像に難くないですし、そもそも和歌を詠んでいるのを「あそぶ」と考えてもいいかもしれません。いずれにしても視覚というよりは音声情報を表す意味が多いですね。ここまで考えてみると、鶴がただ楽しそうに動き回っているだけではなく、こちらまで鶴の鳴き声が聞こえていたのかもしれません*2
 

*1:これは生きていく上で最も必要ない情報の一つかもしれないのですが、拾遺和歌集の部立て「神楽歌」はどちらかというと「神祇歌」の内容です。

*2:ただ「拾遺和歌集新日本古典文学大系の脚注の訳では単に「遊び楽しむ心」とあるので、掛詞というよりは関連語彙を響かせる縁語くらいの理解に留めておくのが正解かもしれません。