わたいりカウンター

わたいしの時もある

濃い影から

  延喜御時、御屏風に
夏山の影をしげみやたまほこの
 道行人も立ち止まるらん
貫之(拾遺/夏/130)

 最近は、日が暮れればもう秋のような涼しい風が吹きますね。涼しくなってようやく、夏のいいところを考えるだけの余裕が出てきました。
 冬にこたつにこもってアイスを食べるのが心地良いように、この夏も冷房の効いた部屋で激辛ラーメンを食べるのが楽しかったです。寒い時には少しでも暖かく、暑い時には少しでも涼しく。あべこべな寒暖の明滅は今も昔も人の心を惹きつけます。
 歌を訳すなら「夏山の影をしげみやたまほこの*1」夏山では木陰が茂っているので(影が濃いので)「道行(みちゆく)人も立ち止まるらん」通行人も立ち止まっているのだろう、という感じでしょうか*2
 陰影がくっきり分かれた木陰のと日なたの対比が目に浮かぶようです。そこで「道行人も」の「も」が気になりました。この「も」の類推にはには大きく二つの解釈があるのではないかと思うのです。
 ひとつは「道行人」も「詠者」も、の「も」。詠者が暑さに耐えかね木陰で休んでいると、まるで示し合わせたかのように同じ木陰に人が集まり始める光景を含んでいるのかもしれません。その木の下が風通しが良かったのか、或いは見晴らしが良かったか、大きな木がランドマーク的に人々の目線を集めていたのかも。空想がはかどります。
 もうひとつは「道行人」も「影」も、の「も」。これはちょっと無理筋かもしれませんが一応考えてみたいです。詠者が日なたの道を歩いていると、濃い木陰があるのに気づきます。よくみると、その木陰ではチラホラと人が休んでいるのが見えました。その動かず休んでいる様子が、地面に濃く落ちた影の動じなさと重なって見えたかもしれないなとも思うのです。
 今の私はどちらかといわずとも明らかに日陰にいます。秋が近づき、日なたの暑さが和らいできたなら、少しずつまた道程を進めていかなくてはいけないと思います。そうは思いつつも、やっぱり日なたは暑いし陰から出たくないよなとも思ってしまいます。
 そこまで考えたところで、この歌が屏風歌、つまり実景ではなく絵を見て詠まれた歌だと気が付きました。

*1:「たまほこの」は道を導く枕詞です。

*2:参考:「拾遺和歌集新日本古典文学大系