わたいりカウンター

わたいしの時もある

日の目をみないと思ってた

出づる日の同じ光に四方の海の
 浪にもけふや春は立つらむ
(拾遺愚草上/初学百首/春二十首/1首目)

 

 今日は、本当におそるおそる、誘われていた歌会を見学していました。そしたら、びっくりするくらい話をわかってくれる人がいてとても楽しかった。例えば、詞書という言葉が前置きなく伝わる楽さを、もう何年も忘れていました*1
 それにしても、こだわって何年も意味を考えてた歌がだんだん下ネタに見えてきたときの話とか、笑ってくれる人がいるんだなぁ。
 歌を訳すなら「出づる日の同じ光に四方(よも)の海の」(初)日の出の、同じ(春の)光に周りの海の「浪にもけふや春は立つらむ」波にだって、今日は春が来たみたいだ、という感じでしょうか*2
 初春の初日の出によって、春は野山だけじゃなく海上にも訪れるはずです。けれど、そういう歌を見つけるのは難しい。海上の春を短歌の中で表現できる名詞も動詞もなかなかなかったのでしょうし、雪や梅を使って初春を表現するのが定着していた、というのもあるでしょう。
 そんな読まれることのあまりなかった波の上の春を詠んだ定家の一首は「あんまりないってのは知ってるけど、どうにか表現してやるぜ」という気概が感じられる気がして、わたしはとても好きです。
 「海上の春の歌」のアイデンティティって何?という問題に「四方の海」という言葉を使ってアプローチして、初春のあたらしい光が最も満ちているのは海上だと言わんばかり。描かれた波の光り輝く様子は、めずらしく海上の春を歌ってもらえた波の、多幸感さえ満ちているように思えました。
 存在しない現代ミームとしての和歌、という謎の弾丸ばかりを舌の裏のリボルバーに仕込みつつも、私はそれが使われる日が来ることなどないだろうと思って過ごしてきました。
 でも、そんなことはなかったみたいです。

*1:振り返ると、ここでの文章群においても結構楽をさせてもらっています

*2:拙訳