わたいりカウンター

わたいしの時もある

紅葉の代わりに

もみじ葉を寄する網代はおほかれど
秋を留めて見るよしぞなき
 (重之集/35)

 ペットボトルにときめいたいた時期があります。小学生くらいの時です。本で*1ペットボトルの底に小さな穴を開けてから半分に切って、飲み口を底に向けて嵌め込むと、川に沈めて魚が取れるというのを知ってから、ペットボトルを使ったサバイバル術にはまっていきました。ゴミだったはずのペットボトルが冒険の扉になってしまったんですね。
 歌の中に出てくる「網代」というのは、川に杭を打ってその間に網の代わりに竹や木を網状に設置して魚を取るものです……私自身それは知っていたのですが、ペットボトルの罠くらいのイメージだったんですよね。どうやらそれは間違いだったみたいです。辞書*2で調べてみたら「石山寺縁起」の絵が載っていたのですが、そこには川幅の4分の3は占めているであろう大きな網代が書かれていました。川上の方へ楕円を半分に切ったようなUの字の口を広げていて、こんな大規模な罠だったのか、と驚きました。
 そんな網代には当然、魚以外もひっかかるわけです。それが秋だと紅葉だったのですね。その網代に溜まった紅葉を楽しむ歌もあったと思うのですが、重之の歌ではそこからもう一歩進んで、「秋を留めて見るよしぞなき」と終わりゆく秋を惜しんでいます。
 また歌の心にも惹かれますが、「見る」という語がすごくいい働きをしている気がします。上の句は当時の人からしたら一般常識でしょうし、景色というよりかは理屈という印象を受けます。秋を留める、というのも同様に理屈ではあるのですが、その抽象的な言葉が続いたところで「見る」という語が一気に現実*3に引き戻してくれます。そうしてはじめて、目の前に網代にたくさん溜まった紅葉が実景として現れて、それでも秋は過ぎ去ってしまうということが読み手に届く。そう思うと「見る」二文字の働きはなかなかだと思うのです。
 さて、一年のうち四つある季節の一つも留めて置けないのに、況や小学生の感受性をや。今ではペットボトルを見ても、なんとも思わなくなってしまいました。私の部屋はそこそこ汚いので、むしろペットボトルが溜まっていますね。ほうじ茶みたいな濃い色のお茶は、時間と共に赤黒くなっていくのですが、それは紅葉に似て……はい、似てないですね。片付けます。

*1:はやみねかおるの「都会のトム&ソーヤ」シリーズが好きで愛読していました。そのうちの一冊だったと思います

*2:三省堂全訳読解古語辞典

*3:あるいは重之の主観映像と言うべきかもしれません