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水茎の跡

水茎の跡ふみつけて試みむ
思ふところに歩みつくやと
 (重之集/64)

 初読で感じた感情は哀愁でした。重之は相模やら陸奥やら地方へ行き仕事をしていた。要は出張の多い人物だったのですね。そんな重之が水草の茎を「ふみ」踏みしめて、思ったところに足跡を残そうとしている。歌に詠まれているその仕草に、自分の意思で勤務地を選べない公務員としての哀愁があるのではないかと思ったのです。
 ですがこれは歌の片面でしかありませんでした。「水茎の跡」とは、美しい文字のこと、転じて手紙なども指す言葉らしいのです。となると「ふみつけて試みむ」までを訳すなら、気を遣って綺麗な文字でかいた手紙を何処かに送ろうとしているのでしょう。そうして「思ふところに歩みつくや」思ったところに行くことができるだろうかと思案している様子が歌のもう片方の意味のようです。
 この手紙が恋文だったらどうでしょう。下の句は、実際にあなたを訪ねてお会いできるでしょうか、という含みを持った、控えめな思慕を伝えていて、繊細でいい歌だなあと思います。
 ですが、もう一つ、上司に自分の希望のキャリアを伝えた手紙だったかもしれません。恋文と同様に、字の美しさを気遣う場面ではあります。就活をしていた頃、エントリーシートを何枚も書き直したのを思い出しました。
 重之集は注釈を持ってないのに読んでいる歌集なので、どっちが主流かを紹介できなくて申し訳ないのですが、恋文でもエントリーシートでも、「思ふところに歩みつくやと」という下の句が淡い未来への期待と不安を伴っているような気がしてそこに惹かれます。学生時代に安い居酒屋で友達と不安を吐露しあったのとかが思い出されて、重之に今の自分の悩みも聞いて欲しいような気になりました。