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ちょっと皮肉な

あふ坂の嵐の風に散る花を
しばしとどむる關守ぞなき
金槐和歌集/春/67)

 今日は雨でずっと家にいました。今も外から雨の音がします。
 花が散ってしまうのを惜しむ歌、ではあるのですが下の句が異質で超捗りました。
 まず「しばしとどむる」ここまで読んだ時の読み手が想像する景がたのしいんですよね。嵐みたいに風の強い日に散っている花、そこで想起するのは花びらのない散った花ではなく、あちらこちらに舞い散っている花びらの方でしょう。それが「しばしとどむる」で、まるで時間を止めたみたいに花びらが空中で静止する景色を思い浮かべてしまいました。
 それが「關守ぞなき」で否定されて一気に動き出す。不思議な映像体験が詰まった、たのしい歌だと思いました。
 しかし冷静に考えてみると、舞う花びらをちょっとだけ止められる「關守」ってなんなのでしょう。いや、そんな關守はいないらしいのですが、もしいるとしたら。散る花びらが「とどむる」で一度止まった様子を楽しんでしまった以上、どんな關守がいなかったのかも考えなければいけない気がしたのです。
 嵐や風、ちょっと捻って死、というのもあるでしょうが、ここではやはり、時間を司る關守と考えてみたいです。どんなことが起こっても、一度起こってしまえば「ちょっと待った!」と軽率に止められるものではない。美しい景色に引っ張られてすぐには気づけませんでしたが、そんな無情感を歌った歌でもある気がします。
 でも「しばしとどむる」までを読んだ後、末句「関守ぞなき」を読むまでのほんのわずかな時間の間、確かに静止した時間の中で花びらが止まって見えたじゃないですか!あれはなんだったんだ?
 少し考えて、目がチカチカしました。それこそが、実朝の思い描いたとどめられないはずの理想の風景だったかもしれないからです。一瞬だけ、雨の音が聞こえなくなった気がします。