わたいりカウンター

わたいしの時もある

交差点は足跡だらけで

大き海の水底とよみ立つ波の

寄せると思へる磯のさやけさ
万葉集/巻七/雑歌/羈旅にして作る歌九十首/1201)

 今日は短歌研究をめくっていたのですが、年の近い人や自分より若い人も歌を載せていて、それがまた「いいな」と思わされちゃったりして心がざわざわしました。行ってみたいと思った場所を、他の人はすでに目指してたどり着いているし、なんなら全然まだその向こうへ走ってるんですよね。
 冒頭歌はスケールが大きくて緊張した心に大きく伸びをさせてくれるような快さがあって浸っていました。「大き海の水底とよみ立つ波の」広がる海の底が響いて立った波が「寄せると思へる磯」寄って来たのだなあ、この磯は……清々しい?何となくスルーしてしまっていた「さやけさ」が急に何だかわからなくなってきました。
 波打ち際を見て、その波は海の底が響いてここまできたのだな、と思う詠者の視点は新鮮な驚きとともに理解できたのですが、それが清々しいとはどういうことでしょう。何だかマラソンをいっしょにゴールしたみたいな共感を帯びた感想のようでちょっと唐突な感じがしました。
 そこで思い出したのはこの歌が「羈旅にして作る歌」だということです。詠者は仕事なりプライベートなりで何か必要があって旅をしている。その時願うのは目的地に無事に到着することでしょう。もしかしたら詠者は、遠く海の深い底に端を発した波が目の前の磯にたどり着いたのを、よかったね、と祝うとともに、自分も無事目的地に辿り着けるかもしれないと思えたうれしさがあったのかもしれません。そこまで考えてみてようやく「さやけさ」清々しい、という形容が腑に落ちました。
 スケールが広くて、波を祝って、勇気づけられる歌だと考えてみると、何だか短歌研究を読んで心をざわざわさせていた自分が恥ずかしくなってきました。岸を目指して泳いでみようと思います。