ちはやぶる神の社しなかりせば
春日の野辺に粟蒔かましを
(万葉/巻三/譬喩/娘子、佐伯宿禰赤麻呂の贈る歌に報ふる一首/404)
ああ!それ私もやろうとしてたのに!と思わず立ち上がりそうになったけれど、読めば読むほどいいなあと思ったので今日はこの歌です。
歌を訳すなら「ちはやぶる神の社しなかりせば」あの神社さえなかったら「春日の野辺に粟(あわ)蒔かましを」春日の野に粟を蒔きたいのに(そして春日野で「逢わまく」逢うでしょうに)という感じでしょうか*1。
私も!と思っていたのは上の句で枕詞「ちはやぶる」を使っておいて、「神の社しなかりせば」とそれを否定しているところ。枕詞と否定ってどちらもある意味強調表現だよね、わかるよ。ご丁寧に強調の「し」までつけていて、神社のせいでとても困っているということが伝わってきます。
また、下の句「粟蒔かまし」に「逢わまく」を響かせているところからも*2、この歌が恋の歌だということがわかります。恋の障害が神社というのはなかなか大変であり、ロマンチックな恋愛小説みたいだとも思います。
けれど「粟蒔く」に恋愛感情を忍ばせているところがなんとも控えめで、枕詞を使っておいて否定する派手な上の句と綺麗なコントラストをなしています。二人の恋は神社に阻まれて燃え上がっているとは思うのですが、それはキャンプファイヤーのようなハレの祭りのような炎ではなく、じっくり弱火で何かを煮るような日々絶えることのないケの炎でしょう。恋のムードを帯びた「粟蒔く」はそんなことを思わせてくれます。
……ほんとうに読めば読むほどいい歌なんですよね、悔しいすけど。上の句の工夫に下の句も負けてないところとか特に。下書きにある類想の歌、もう少し磨かないとダメだなあ。そのうち再戦を申し込もうと思います。