わたいりカウンター

わたいしの時もある

気になり出した君に

山深み我が身入りていにし月
思ひ出づるは涙なりけり
(重之集/167)

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」なら物語が始まるところですが、深い山に入って月が見えなくなるこの歌はラストシーンのような気配があります。また核となる感情もさることながら、動詞がとても多く「入る」「いぬ」「思ふ」「出づ」と四つ使われていてこの歌、おもしろいっすよ。「山深み我が身入(はい)りていにし月」山が鬱蒼としているので私が入ると見えなくなってしまった月を、まではいいのですが「思ひ出づ」の解釈がふたつある気がしていてややこしいかもしれませんが、どうかお付き合いください。
 一つ目の解釈は「思ひ出づ」と一語でとる場合。上の句までは情景描写として一旦句切れて、「思ひ出づるは涙なりけり」思い出すのは涙だなあ、という訳になるでしょうか*1。この場合、月が見えなくなって急に悲しい記憶を思い出してしまったという状況を歌っています。深い山に入るのは移動のためでしょうし、出張の多かった重之ですから、涙を思い出すのは別れを辛く思っているからなのでしょうか。例えば月を瞳に見立てて、見送りのとき恋人のつぶらな瞳がずっと泣いていたから見えなくて、それを月が隠れた時に思い出して、ああ、あの子ずっと泣いていたなあとか、そういう読み手の妄想の幅が広くて曖昧な解釈になるのが「思ひ出づ」一語解釈コースです。
 もうひとつが「思ひ」「出づ」と二語でとる場合。上の句の情景描写の最後「月」の後に「を」が省略されていると考えて「いにし月思ひ」見えなくなった月を思うと「出づるは涙なりけり」出てくるのは涙だなあ、という訳になるでしょうか*2。一語解釈コースの思い出すのは涙、というフレーズがかなり違和感がある気がしていて、二語で解釈する方が自然なのかなと感覚的に思うのですが、どうでしょう。月が見えなくなって、ああ私は孤独なのだと、旅立ちの別れを思い返して寂しさに直面して、涙が出てくる。そういう情景なのかな、と思っています。
 出張で長い別れになる、という時に、新幹線でひとり窓の外を見ていると、轟音とともに暗闇に包まれる。外の景色から意識が自分の感情に向いてしまって、辛さと対面することになる。窓ガラスに映った自分を見なくても、月の光が届かない深い山中の暗闇は、見ないふりをしていた感情を突きつけてくる。新幹線なら、一瞬でしょう。でも重之が深山の暗がりに入るまでには、それよりは少しだけ間があったはず。そのわずかな時間の情景を四つの動詞で三十一文字に圧縮されて描かれた避けがたい悲しみに、ちょっと面食らいました。

*1:拙訳

*2:拙訳