衣手の別る今夜ゆ妹も我も
いたく恋ひむな逢ふよしをなみ
(万葉/巻四/相聞/三方沙弥/508)
歌を訳すなら「衣手の別る今夜(こよい)ゆ妹も我(あれ)も」袖が離れた今夜からはあなたも私も「いたく恋ひむな*1逢ふよしをなみ」とても恋しく思うだろうね。逢う方法がないから、という感じでしょうか*2。
もう逢わないってのに、随分な言い回しじゃねえか、ええ?と拗ねたくなるくらいには、キザな別れの歌だなと思います。だって下の句すごくないですか?ほんとうにそう思うなら、わざわざ言わなくたっていいじゃん!*3と、思うのですが、いくら別れるからって、その人のこと全部を否定しなくてもいいよな、と冷静に考えると思うわけです。
昔は電子チャット機能とかないわけですし、ひいては相手とのやり取りってそれこそ歌以外にはあんまり残っていないのではないかと思うのです。そう思うと、後ろ髪を引かれるくらいには、あなたとの日々は幸いで満ちていたよ、という別れの挨拶にも取れるこの歌は、三方沙弥なりの優しさなのかな、と考え直しました。
という屈託を並べて初めて言及できるのですが*4、上の句「衣手の別る今夜ゆ」がめっちゃ好きです。すごく迂遠な表現でありながら、相手の袖が、手が、シルエットが、だんだん遠くなってしまう情景が目に浮かんで寂寥を誘います。
名詞につく「ゆ」は「〜を通って、〜を経て」と訳されるのが有名ですが、それを拡大解釈して「今夜からは」と今後に想いを馳せている全集の訳が沁みました。時間的にも、相手と自分の空間的距離としても、離れていく感じが「ゆ」で出ていて、一語なのにニュアンスが豊かというか、一首の中でとても大きな役割を果たしています。この助詞のせいで寂しさがより煽られている気がして、悔しいけど、いい歌だなって、思います。