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わたいしの時もある

友達んちから帰るとき

ひさかたの天の露霜おきにけり
家なる人も待ち恋ひぬらむ
(万葉/巻四/相聞/大伴坂上郎女/651)

 私が住んでいた地域では、夕方の決められた時間に児童の帰宅を促す放送が流れました。子供の頃はもっと遊んでいたくて鬱陶しかったですが、歳を重ねるにつれていいシステムだったなと思い直しました。
 歌では帰る理由をふたつ指摘するのですが、その規模感の落差がおもしろい。上の句「ひさかたの天の露霜おきにけり」では、もう空から露霜が置く時間になりました、と大きなスケール感で時間の経過を演出しておいて「家なる人も待ち恋ひぬらむ」家にいる人も帰りを待ちこがれていますよ、と身近な相手に焦点を絞る。グーグルマップの行き先案内で地図を大きくしたり小さくしたりする楽しさがこの歌にはある気がします。
 けれどふと「ぶぶづけでもどうどす?(そろそろお帰りください)」のような隠語だったらどうしよう、と怖くなりました。仲睦まじいやり取りの終わりに「じゃあそろそろお開きにしよっか」と告げるような気安い雰囲気を想定していたからです。さて、一読して持ったこの和やかな印象はどこから来たのでしょう。
 講談社文庫、中西進訳の脚注を見ると四句「も」の解説があり、安心しました。曰く『「も」はあなたと別れがたい自分に対して。(下略)』つまり(わたしもあなたと別れるのは寂しいけれど)家の人あなたの帰りを待ち焦がれているでしょう、という前に省略された含みが相手への好意に満ちていることが「も」からわかると指摘していました。仲が良さそうでよかった。
 我が子と同じ小学校の友達が遊びに来た時、保護者としては、もういい時間だから帰りなさいと指摘するのは、真っ当な指摘にもかかわらず、なんか剣呑な感じがしてしまって言いづらいのではないでしょうか。夕方の放送はそんな時にもいいクッションとして役立っていたのだと思います。冒頭歌における「ひさかたの天の露霜おきにけり」もそういう役割をしていたでしょうか。そういえば私も、帰宅を促された時に「おうちの人も心配するよ」と声をかけてもらった気がします。