わたいりカウンター

わたいしの時もある

ごめんなさい

音に聞くつつみの滝をうち見れば

ただ山川のなるにぞありける

(重之集/173)

 

 私は大学を卒業して宙ぶらりんの状態になった後、某社の契約社員になってのち現在は無職である。来年にはまたフリーターのような形で仕事を求め生きていくつもりである。誰かに聞いてほしくて宣誓する。ごめんなさい、どうもありがとう。

 歌を訳すなら「音に聞くつつみの滝をうち見れば」うわさに聞いていた堤の滝を気合い入れて見てみたら「ただ山川のなるにぞありける」ただ山川が在るがままにあったというだけだなぁ*1という感じでしょうか。

 こうあらねばならない、という気持ちと自我の発露の淡いにあってほしいと求めた仕事が、もう、ぜんっぜんできなくて、それに向き合う甲斐性もなくて、実家に甘える形で無職に戻ってしまった。だせぇことだなぁと思いつつ、また、社会というまな板の上にならなきゃ生きていけないのだという、諦念と暗澹たるに気持ちの中で、和歌とか個人の人格の発露みたいな文章に匿われ慰められながら、生き長らえさせてもらっていると最近思う。

 機会を恵んでもらった仕事は刹那の楽しさと悠久の人格否定をはらんでいて、やってみてよかった。職場の人には申し訳ないと思う。けれど、行けなかった全国大会に行けていたら、みたいなもしもを考えさせないだけの道案内を、たしかにわたしにしてくれたと思う。ごめんなさい、どうもありがとう。

 冒頭歌は、個人の先入観*2というバイアスを取っ払って、現実を直視するという視座があるような気がして、いま紹介しなくてはいけないと思わされた。願望と現実が一致することはしあはせなことだ。一致しなかろうが、しかし、わたしたちは毎日を生きて、しかも、ほのかに日々に期待しなくちゃいけないような気がしている。

 やっていこうね重之。と虚空に向けた愛想だけは、あなたに見てもらっても見苦しくないような顔をしている気がする。やっていく。ごめんなさい、どうもありがとう。

*1:拙訳

*2:わたしの場合でいうところの憧れ