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冬はいかにむすべる滝のいとなれや

今日ふく風に解くる音する

(重之集/223)

 

 毎日、こうして歌を読んで、こころが動いていくのを文字にして、一体どのような意味があるでしょうか。

 歌は、滝の水流を糸にたとえる、その典型表現を、冬から春になる季節に即して、更に発展させているとこがかっこいい。歌を訳すなら「冬はいかにむすべる滝のいとなれや」冬は実に自然に凍った滝の糸だからだろうか「今日ふく風に解くる音する」(春が来た)今日のふく風に解けていく音がするなぁ、という感じでしょうか*1。「むすぶ」のポテンシャルが最大限ひきだされてて最高です。

 糸のように流れる滝が結ばれて硬くなる(凍る)。その結び目を解くように、春風で氷が解けていき、また滝が流れ始める、その音が聞こえるというのですね。「むすぶ」「滝のいと」「とくる」と縁語と掛詞による美しい修辞が、しかしあくまでも春が来たうれしさに仕えているところにこの歌の良さがあります。

 また、春の訪れに、重之は先ず「冬はいかに」と、滝も凍ってる冬を思い返しちゃう。春に思いをはせる前にですよ? 重之と友だちになれるような気がするのは、こういう思考の流れの中に、若干、根が後ろ向きな気配を感じるからです*2

 さて、歌の本筋とは少し離れるのですが、「むすぶ」には「掬ぶ」という漢字もあります。水などを手とかですくうときに使うやつですね。わたしは歌を読んで、心の表層に浮かび上がってきた感情を掬っているのだと思います。それがほかほかと温かいときもあれば、ひえひえで凍ってるときもある。先ず、その温度がわかることに発見のたのしさがある。それと同時に、感情をこうして文字にして見つめているうちに、どういう経緯でその温度になったのかが少しずつわかってくる。そうして、どうやらわたしは、感情を平熱に近いところまでほどこうとしている節もあるようなのです。

 心をたくさん動かしたいと思うし、同時に平熱であってほしいとも思うのは、なんとも贅沢な感じがします。これからも、贅沢をしていこうと思います。

 

*1:拙訳。「いかに」「なれば」あたりがかなりあやしいです。

*2:想像でしかないけれども