わたいりカウンター

わたいしの時もある

川舟ののぼりわづらふつなでなは
くるしくてのみよをわたるかな
(新古今/雑下/難波頼輔/1773)

 アメリカ大陸を横断して荷物を運ぶゲームをやっていたとき、最も重宝した道具はロープ用パイルでした。縄付きの杭の事です。崖や下り坂など、身ひとつでは危険を伴う悪路も安全に下れるようにしてくれて、復路はそれを登ればいい。縄と杭だけですから軽くて、他に重い荷物を持つ時でも心強い味方でした。
 歌は苦しい方法でしか世の中を生きていくことはできない、という歌です。訳すなら「川舟ののぼりわづらふつなでなは」川舟ののぼるのが辛くて掴む縄を繰るではないが「くるしくてのみよをわたるかな」ただくるしいと思って世の中を生きているなあ、という感じでしょうか*1。上三句が「繰る」から「くるしい」を導く序詞のようになっています。激流に押し戻されながらも歯を食いしばって引き寄せる様子も、その縄が軋む様子もありありと浮かんできて、単に言葉だけでなくイメージも「くるしい」を惹起させるに足る表現になっていて、57577を濃密なものにしています。
 頼輔は藤原忠教の四男坊でした。ふたつ上のお兄さんが保元の乱に際して崇徳上皇の味方をしていたため流罪になり、頼輔は直接罰を受けることはなかったのですが、東山に自主謹慎していました。そこから歴史の表舞台には上がらずにいたのですが、後白河上皇にその蹴鞠の才能を見出されてまた社会に戻ってきた人のようです。
 配送ゲームをプレイしている時、ロープ用パイルは確かに便利でした。しかし、ゲーム内で実際に縄を掴んで登っている側からしたら、結構な重労働だったかもしれないな、と思い直しました。時間がかかっても、回り道をしてもう少し楽な道を歩かせてあげられたらよかった。
 でも頼輔は楽でも遠回りな道はもう残されていなかった。兄弟が流罪になって、社会の流れに逆らわないと生きていけなくなったのです。頼輔にとっての縄は蹴鞠だったでしょうか。わたしも、わたしの縄を見つける必要があります。