わたいりカウンター

わたいしの時もある

しをるもしをらないも

しをりせで猶山ふかく分けいらん
うき事聞かぬ所ありやと
(新古今/雑中/西行法師/1641)

 歌を訳すなら「しをりせで猶山ふかく分けいらん」枝も折らないでさらに山の奥へ入っていこう「うき事聞かぬ所ありやと」いやなことを聞かないで済むところがあるかと思って、という感じでしょうか*1
 「しをり」とは枝折りのことで、山道を進むときに帰り道の目印となるように枝を折っておくこと。だからか「しをりせで」から、こんなやなことばっかり聞かなきゃいけない社会になんてもう戻ってこないぞ、みたいな意思を感じてしまって、ちょっと羨ましく思った。わたしはなんだかんだ、この世界の正しさみたいなものから褒められたいと思っている節があるからだ。最悪すぎる願望だと自分でも思う。
 しをりって漠然と捉えるなら目印ということなんだろうか。現代の本に挟む目印だって栞という。わたしは毎日何かしらを読んで観て考えて、そしてそれらを書き残したくて書いている節もある。毎日書くぞと意気込んでいるわたしをみて、西行は笑うだろうか。
 でも、本当に山の奥へ奥へ行きたいのなら、やっぱり目印は必要なんじゃないの? とイマジナリー西行に笑われたから聞き返してみた。返答は返ってこない。わたしは続ける。だってさ、もし山道に迷って途中で気づかず来た道を戻ってきてしまったら、あなたが、いや、わたしもやだなって思ってるよ? その社会に戻って来ちゃうかもしれないじゃん。結局、ふんわり社会と関わりを持つ余地は残しておきたいんじゃないの? しをりしてもせでも変わらないなら、なんとなくわたしはしをる方を選ぼうと思うよ*2。勝手に。だから、もし山道でしをったのを見つけたら、わたしがしをったかもしれないと思ったらいいよ。またね。

*1:参考:「新古今和歌集日本古典文学大系

*2:話してる時は忘れていたけど、この歌が西行のしをりなんじゃないの? 今度会ったとき謝っとき