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わたいしの時もある

時には明るくないほうが

白雲の来宿る峰の小松原
枝繁けれや日の光見ぬ
(後撰/雑三/時に遇はずして、身を恨みて籠り侍ける時/文屋康秀/1245)

 明るい、と言われて真っ先に思い浮かぶ色は白だった。白は光そのものでもあり、光の気配でもあるらしい。
 歌を訳すなら「白雲の来宿る峰の小松原」白雲が来て留まっている峰の小松原では「枝繁けれや日の光見ぬ」枝が繁っているからか、日の光が見えねえんだわ、という感じか*1。のどかな景色のようでもあるけれど、詞書に「時に遇はずして、身を恨みて籠り侍ける時」とあり、帝からの寵愛(出世)がなくて、引きこもってる時に詠まれたものだとわかる。日の光は帝の寵愛(出世)の暗喩だと思うと、きれいだなあと楽しんでいた白雲も小松原もその枝も、なんだか急にそっけない感じがしてきた。
 ふと、黒い雲と白い雲の違いを思った。平安時代には乱反射云々の話は知られていないだろう。けれど、きっと雲の厚さによって遮る光の量が変わるのだと、身近な布や服を通して知っていただろうと思う。薄い雲は白くて、厚い雲なら黒いことも。
 日の光が帝の寵愛のことを示すなら、わたしに差さない日光ならせめてその気配を感じたくないと思うのも人情ではないか。けれど康秀の目の当たりにしている景は、雲が反対側で日の光を受けている気配を、その白さによって惜しげもなく披露している。わがままだってわかっているけど、見えないところでやってくれよ。そういう意味では黒い雲の方がまだマシなのだ。やんなっちゃうって、わたしなら。
 しかし康秀がやさしいというか、愛嬌があるなと思うのは、「枝繁けれ」と日の光が見えない理由をあくまでも疑問形で表現しているところ。いや〜なんかよくわかんないんすけど日の光が見えないんすよ、枝でも繁ってんのかな? というような、悲しみの中にあってどこか前向きな康秀の詠みぶりが、わたしにはまぶしかった。