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わたいしの時もある

爆音乗詠

あまのはらふみとどろかしなる神も
思ふなかをばさくるものかは
(古今/恋四/701)

 家の近くをよくバイクが通る。何も窓の外をじっと眺めている訳ではないが、わかる、というか否応なしに聞こえてくるのだ。そのエンジンの大きな音を聞くたびに、わたしは、どうして人は大きな音に魅せられるのか考えてしまう。何度も、何度も。今振り返ると、逃げ場のない騒音という現実から逃避するためなのかもしれないが。

 歌を訳すなら「あまのはらふみとどろかしなる神も」空を踏み轟かす雷も「思ふなかをばさくるものかは」想い合う仲を裂くことができるだろうか、いやできまい! という感じか*1。いや、景気がいい! 雷で空が裂けても、ふたりの仲は裂かれない! とは、なんとも大きく出たなと思うけれど、轟音と共に雷光があたりを包んでも、微動だにせず自分たちの恋仲を信じて疑わない詠者の横顔は凄みがあって、本当にそうかも、と思わせてくれるだけの迫力があった。

 バイクを轟かしている人は、日頃何か辛いことがあるのだろうか。あるいは、ままならないことが言葉にならないまま澱のように心の底に溜まっていくのが耐え難くなってそのうちに、今日はバイクに乗ろう、という日がくるということなのだろうか。唯一自分の手で自由にできるのは、この爆音轟くバイクのアクセルだけ、という状況になった時に、果たして自分は突っ走らずにいられるか。……正直に言って、自信がない。わたしにとってのアクセルがたまたまキーボードだったというだけではないか。

 歌に戻ると、この大音量インド映画みたいな歌のことを考えているうちに、この詠者の威勢の良さの生まれたところはどこなのだろう、という疑問に行き着いた。雷を相手どって、空が裂けても恋仲は裂けず、と高らかに宣言させたのは、なんだったのだろう、と。

 単なるキザな歌、と考えるにはあまりに真に迫っている。恋四という部立てに配されているあたり、恋が始まって結構時間が経っている歌という気もする。今まさに始まった恋、というよりも、育んでいた恋が難局に差し掛かり、それでも、負けるものか! と叫ぶような日常こそが、雷光に照らされ濃くなる陰影のように、鮮烈に詠者に迫っているのではないだろうか。

 恐ろしくて懐の深い底なしの闇みたいなインターネットに向かって打鍵するわたしも、衝動に任せてアクセルを握り込み轟音響かせるライダーも、自分の恋の不変を天を裂く雷と張り合って歌う詠者も、根っこはそんなに変わらなくて、いつか平日の昼間に一人カラオケに行ったら三人とも隣の部屋だったみたいなことも、あったらいいと思った*2
 

*1:参考:「古今和歌集日本古典文学大系

*2:一人カラオケに行った時に、隣の部屋からも延々同じ声がうっすら聞こえる時の、あの名状し難い安心感は一体なんなんですかね