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わたいしの時もある

戻れない

 

月をおもふあきのなごりのゆふぐれに

こかげふりはらふ山おろしのかぜ

(新勅撰/冬/390/慈円)

 

 今日は水族館に行った。親子連れが多くて、邪魔にならないようにいそいそと回ってしまっているときは楽しくなかったけれど、身長の3倍はあろうかという大きな水槽の前のソファに座れて、そこでまったりできたのがよかった。

 でかいエイはかわいいし、圧倒的な存在感があった。エイを避けるように、細かい魚が群れをなして、キラキラと光を反射させながら動いているのをぼんやりと目で追っていた。マイペースに泳ぐ大きめのハリセンボンの下顎を眺めるのも心地よかった。水槽が縦に大きいと水族の迫力をたのしめるし、相対的に人間の無力感を肯定できるのもいい。

 歌は秋を惜しんでいたら冬を突きつけられた歌。訳すなら「月をおもふあきのなごりのゆふぐれに」月を思っていた秋の気配の残る夕暮れに「こかげふりはらふ山おろしのかぜ」木の影を勢いよく払うよ、山おろしの風は*1、という感じか。もう冬なのだなと、思わず腕をさすってしまった。下の句など、枯れ葉が吹かれて鳴る乾いた音が聞こえてくる。

 季節の不可逆性ーーもう秋ではなく冬なのだと、山おろしの風で気づくというのは、人の力では季節などというものはどうにもできない、というところで、大きな水槽の前にいるときの無力感にも似ていた。

 それにしても、あれだけの生物が水槽の中でそこそこのスピードで動いているのに、こちらには全然音が聞こえてこないのはかなり違和感がある。ふと、指と指の間にある水かきの名残みたいな曲線を眺めているうちに、人間というのは海から陸に上がってきた流れの突き当りの1つなのだと思いだす。慈円が、もう秋には戻れないことを木枯らしに舞う木の葉の音で気づいた脇で、わたしは無数の水族ひしめく水槽の静けさに、水の中には戻れないなと思う。エイの腹に空いた顔のような穴が、さっきまで可愛く見えていたのに、今はなんの感情も見いだせなかった。

*1:拙訳